新型コロナウイルスの感染拡大は私たちの生活を大きく変えました。それは高等教育機関においても同様です。HEAPでは、コロナと障害学生というテーマで現場の様子をアーカイブしていきます。
WEBマガジン(2021年3月公開)
コロナ禍の大学における、障害のある学生たちのことを綴った全9回のウェブマガジンです。コロナ禍の大学で、障害のある学生らがどのような状況にあり、どのようなことに直面していたのかを知るために、障害のある学生とその支援者ら20人に聞き取りを行いました。聞き取った話は3つの記事にまとめています。また、そこで浮かび上がってきた課題をさらに考えていくために、3人の専門家にインタビューを行っています。
Voice of 2020 – 2021(2022年3月公開)
2021年の冬。HEAPでは、コロナ禍を通して障害学生と障害学生支援に携わる人が考えたこと・考えていることを「声」として収集しました。
Index
障害のある学生
No.1 ペンネーム:マカロニペンギン
コロナ禍において、それまでは対面で行われていたゼミがオンラインでの実施となった。車いすを使いながら日常生活を送っている私にとって、移動しなくていいということは、思いがけず「よいこと」であったかもしれない。自宅からオンラインで参加できれば、他の人より時間がかかる電車移動をしなくてよいし、使いたい場所に、使いたい時にいつも使えるわけではない多目的トイレを一生懸命に探す必要だってない。いまは、パソコンを立ち上げれば良いし、自宅にある使いやすく占有できるトイレを使えば解決する。たしかに楽だ。
ただ、失ったものもある。ゼミ終わりの同級生との雑談や、指導教員との大事な飲み会だっていまはなくなってしまった。いまあるのは、真面目な研究の進捗報告だけだ。「ゼミの目的を満たしているから、それで十分じゃないか」という人もいるかもしれない。本当にそうだろうか。もしかすると、同級生との雑談は良い気分転換になっていたかもしれないし、指導教員との飲み会では、普段のゼミでは言えない悩みを相談できたりしたのかもしれない。実は、頑張って電車に乗って、多目的トイレを探したりして対面で参加することは「研究の進捗を報告すること」以上に、大きな意味をもつのではないだろうか。
私が恐れているのはポストコロナにおいて、自分自身が社会にあふれる障壁に心が折れて、「オンラインでいいか」と外出することがめんどくさくなってしまったり、あるいは周囲の人々の「対面での参加は負担ではないだろうか」という善意の結果として、「あなたは、車いすを使っているから対面ではなくオンライン参加でいいよ。」という言葉をかけられたときに、自らの意思を深く再確認することなく諦めてしまう当事者が現れてしまわないかということである。
もちろん、オンラインで参加できるようになったことで便利になったことはある。そして、オンライン参加があることでイベントに参加できるようになる当事者が増えるといったこともある。それはとても大きなことだ。同時に気をつけなければいけないのはオンライン参加が、それが許される場面においては、あくまでも一つの選択肢として存在できるようにならなければならないということである。社会に障壁が溢れるがゆえに、実際に外に出ることを諦めてオンライン参加を選ばなければならなかったり、あるいは周囲の人々が本人の意思を確認することなくオンラインのみを参加方法として考えてしまうようなことはあってはならならないはずだ。いまは、めんどくさく、時間や手間がかかる外出が愛おしくすら感じる。
No.2 ペンネーム:西の大学院生
コロナによる大学のオンライン化は、最初はとても便利だと感じました。体調が安定しなくても授業に出席できるし、移動の負担もありません。ただ、実際に授業を聴いている時に比べると集中力が持続しにくかったり、少しさぼってしまうこともありました。あと、私生活と勉強の線引きが難しくて、普段よりも時間はたくさんあるはずなのに、勉強がはかどったという印象はありません。オンラインでの授業受講も選択肢としては悪くないけど、どうしても必要な時だけというのが自分には合っているかもしれません。
No.3 ペンネーム:なし
受験生のころからコロナが蔓延していたせいか、コロナがない大学生活を知らないし、考えたことはなかったです。大学生活に慣れるのは、オンライン授業だったり一人暮らしだったり、他にも高校とは違うことばかりで本当に大変でした(コロナじゃなくても大変だったかもしれません。それは経験したことないのでわかりません)。
リモート授業は、わざわざ大学に行かなくていいのは楽です。でも対面はキャンパスを動き回れること、先生に直接質問できたり大学でできた友達と話ができるのは他に変え難いなと思います。
No.4 ペンネーム:ぴぃす
新型コロナウイルスの影響で授業がオンラインになった。その変化によって、神経筋疾患による身体障害のある私が気付いたのは、今まで自分は、多大なエネルギーと時間を「通学」のために割いていたということだ。
対面の授業の時は、1日2、3コマ授業を受けると、最後の方には、頭と体が、寝て休憩することを希求していて、文字通りヘロヘロになって帰宅することが多かった。しかし、オンライン授業では、対面の時と同じように1日2、3コマ授業を受けても、疲れはするものの、その度合いがまだマシなのだ。また、疲れたとしても、すぐ後ろにあるベッドに飛び込むことができ(また、家には呼吸補助装置もあり、すぐそれを付けることもできる)、頭痛を感じながら帰路を耐える時間もなくなった。
私は、日常生活動作のほぼ全てに介助が必要で、介助者に指示を出しながら、外に出るために服を着替えて(ちなみに私はコロナになってから夜も昼も同じ部屋着を着ている)、靴下や靴を履いて、ストールを巻いて、マフラーをして……といった動作に、より時間がかかる。また、夏なら日差しに照らされて、冬なら冷たい空気や風を浴びながら、大学と自宅を行き来する間にも体力・気力を消耗していたのだろう。オンラインになって、それらの時間やエネルギーが節約されたことで、もともと人よりも体力がなく疲れやすい私の身体はとても楽になった。これらがオンラインになって私が発見したことであり、メリットだと感じたことである。
ここまで、私が感じたオンライン授業のメリットを書いてきたが、ここで不安になるのが、これらのメリットを(表向きの)理由にして「では、障害のあるあなたはずっとオンラインにしましょう」と勧められたり、強制されたりしないだろうか……ということだ。そんなことは「普通に」考えたらおかしな話だが、私にはなんだかそれが現実にありそうに感じられて安心していられない。というか、「現在にありそう」なのではなく、現実にあった/あるから、不安なのだ。障害のある学生が授業に参加するにあたって、オンラインよりも対面の方が、大学側に(あえてひどい表現を使うと)「手間がかかる」とされる場合に、オンライン授業を勧められるのではないか……その度に私は、対面で参加したい理由をいちいち述べないといけないのだろうか……と思ってしまう。オンライン授業という選択肢が、排除に加担するツールにはなってほしくない。
私はオンライン授業も対面授業も、どちらも同じようにアクセスできる選択肢となってほしい。ちょっと体調が優れない時や、後の予定のために体力をセーブしたい時、人目に晒されるのがちょっとしんどい時はオンライン授業、実際に顔を見て受講生や先生と話をしたい時や、現地に行った方が自分にとって学びがよりスムーズに行ったり豊かになりそうな場合は対面授業といったように、この2つの選択肢が(どちらかを強制されるのではなく)自由に選べるような環境が整えば、もっと楽に、自分にあったやり方で、大学での学びや研究にアクセスできるのではないかなと感じている。
No.5 ペンネーム:白うさぎ
コロナ禍になって、「触れること」はなるべく避けなければならないことになってしまった。しかし、視覚障害のある私にとって、「触れること」は、人とのコミュニケーション手段としても、情報を得る手段としても、欠かすことはできない。例えば文字を読むときは点字を触って読むし、誘導をお願いするときは、ひじを借りて案内してもらう。以前は当たり前のことだったが、コロナ禍以降「触れること」に罪悪感を覚えるようになってしまった。特に人と触れるときはそうである。幸い嫌な態度を取られたことは一度もないし、みなさんそれまでと変らずに明るく、やさしく接してくださっている。それでも、内心嫌な想いをさせているのではないか、私と触れたことで不安にさせてしまってはいないか……と、ときどき考えてしまうのだ。
それなら「触れること」をやめてしまえばいいのかというと、なかなかそうはいかない。もちろん不要不急の外出をしないというのは大前提なのだが、それでも独り暮らしの私は買い物にも行かないといけないし、バイトにも行く。授業はオンラインになったが、アクセシビリティの面で、独りで問題なく受講できるものと、どうしても独りでは難しいものがある。そこで、支援ルームに何かしらのサポートをお願いすることになった。PCの遠隔操作など完全オンラインの選択肢もありえたのかもしれないが、相談の結果私が支援ルームへ行き、対面でサポートしていただくことになった。支援のときはマスク着用や手指消毒を徹底したこともあり、幸いにも支援界隈で感染が広がるということはなく、今までの二年間を乗り切ることができた。このような状況下で対面での支援を続けてくださった支援ルームの方々や学生サポーターのみなさんには本当に感謝しかない。
今振り返って、対面サポートはすごく自分にあっていたと思う。遠隔サポートにして、zoomから聞こえる先生の声と、自分のPCの音声と、サポートしてくれる人の声とが全部同じスピーカーないしはイヤホンから聞こえてきて、ときにはそれに加えてチャットや動画も扱うみたいなことになったら、とても私はやっていけなかっただろう。家族に手伝ってもらうというのもよくありがちな選択しだが、コロナ禍もオンラインのアクセシビリティも社会の問題なのに、その負担を全部家族にかけるというのも何かちがう気がする。それでも、これでいいのかという迷いはずっとあった。実際周りの視覚障害関係の知り合いで、対面サポートを定期的に受けているという話はあまり聞かなかったし、自分にとっては一番楽だけど、これは甘えなんじゃないかとか、不要不急じゃないんじゃないか……という想いもずっとあった。
このように「触れること」に迷いやストレスを感じるようになったわけだが、それでも「触れること」をやめなかったおかげで救われていたこともあるのではないかと思う。中には障害を理由に接触を避けるという選択肢を取りづらいこと自体、差別だとか不平等だという人もいるかもしれないし、もし私が何か持病を抱えていたら、そう感じていたかもしれない。しかし、仮に家から一歩も出なくても十分に授業が受けられる体制が整っていたとして、さみしがり屋の私のメンタルが持ったのだろうか。たぶん無理だ。支援を受けるために定期的に人に会っていたおかげで、授業がちゃんと受けられたのはもちろん、コロナ禍という先が見えない中での不安、会いたい人に会えず、行きたい場所に行けないストレスが和らいでいたように感じている。
オミクロン株の広がりで、もう少しコロナ禍は続きそうな状況である。私の「触れること」に対する迷いとも、もう少し付き合っていかなければならないようだ。しかし、もちろん何でもかんでもというわけにはいかないが、十分な対策をし、ある程度範囲を限定した上で、「触れること」は大切にしていきたいと思う。
教職員(障害学生支援部署)
No.1 ペンネーム:匿名希望
数年前とある大学の障害学生支援コーディネーターとして着任して、最初に取り組んだのはオンライン受講を求める学生のケースワークでした。当時は新米コーディネーターでしたので「本学は通学制でオンラインはあり得ない」という学内の大半の意見に、感情論以外で太刀打ちする手段がなく途方に暮れたことを覚えています。2020年春、コロナの蔓延がそういった意見を瞬く間に「仕方ない」に翻えさせていくのを目の当たりにし、当時の自分の無力さを痛感するとともに不思議な気持ちでした。ほら見たことか、という言葉で表現し切れない何かを感じています。
現在、コロナも少しずつ終息に向かっているようです(旅行したい)。同時に現場ではオンライン受講を求める学生の声がよく聞かれるようになりました。次こそは「仕方ない」ではなくとことん対話をしたいと思い、日々仕事に励んでいます。
No.2 ペンネーム:うずらのたまご
対面授業からオンライン授業に変わり、今まで対面で行ってきたテキストデータ化や情報保障などのサポートが提供できない課題に私達は直面した。それでも試行錯誤を繰り返しながらクラウドストレージやZoomを駆使してリモートで支援ができる体制を整えた。
今まではテキストデータ化に従事する支援補助学生は支援室に来て業務を行っていたが、依頼する資料をクラウドストレージを使ってやり取りすることで、支援補助学生が自宅等で作業できるようになった。また、情報保障支援では、Zoomや遠隔情報保障システムを使うことで、支援補助学生が利用学生と同じ場所に居る必要がなくなった。つまり、ICTを活用することで場所の制約を乗り越えることができたのだ。
コロナ禍でテクノロジーの大きな可能性を感じた。
No.3 ペンネーム:曇り空
キャンパスから学生の姿や声が消えたとき、何が起こっているのだろうと漠然とした思いがありました。ただ、ぼーっと考えている間もなく、授業のスタイルが大きく変わった学生達の様子をしっかりと捉えて、相談・支援を進める必要が生じました。支援部署としても色々なことを考えなければいけないと思ったし、正直、とても不安で、そして大変でした。一方で、支援部署として目指すべきことが大きく変わるわけではなかったというのも事実だと思います。まだまだ現在進行形。引き続き、しっかりやっていきたい。それに尽きますね。
No.4 ペンネーム:紙ひこうき
コロナ禍を通して、一番の変化ではないかと感じるのはオンライン授業です。
家にいながら授業を受けること、それは感染予防という点では最善だとしても、そのほかの点においては良い影響も悪い影響も様々あったかと思います。障害による困りごとの内容によっては、オンライン授業が新たな選択肢として広がったとも言えました。ただ、通信教育の学校とは異なりますので、オンラインでは授業の本質を満たせないこと、平常時には単位として認定し得ないこともあります。
コロナ禍を経て、大学がどんなふうに変わっていくのか動向を見つめながら、今できることを1つずつ確実に行っていきたいと思います。
No.5 ペンネーム:ホワイトブレンド
当たり前だった授業スタイル・支援スタイルはコロナ禍によって変化したが、それは障害学生支援の未来にとって有益な変化だったと感じている。どんな状況になろうとも障害学生支援は動き続け、その後ろで誰しもが試行錯誤しながら毎日を過ごしているに違いない。コロナと共に2年間を過ごしているが、今日まで長い長い一年を過ごしているような錯覚にさえ落ちている。いつまでこの環境が続くのかは分からないが、「あの時はこうだったね」と、対面して話し合える日が一日でも早く来ることを願うばかりだ。皆さん、今日もお疲れ様です。