February, 2023 #14 Omura Miho Interviewer Murata Jun / Text Kitani Megumi 目の見えない人たちに囲まれて 村田 僕が大村さんにはじめてお会いしたのは、2016年に厚生労働省が実施した「大学等に通学する障害者に対する支援モデル事業」(注1)だったと思います。 それ以降も様々なプロジェクトで顔を合わせていますが、なぜこの障害学生支援に関わるようになったのか、少しさかのぼって聞かせてもらえますか。 大村 まず私の生い立ちから話そうと思います。 両親がともに盲学校出身で、目が見えないんです。群馬県と新潟県の県境に水上温泉という温泉地があって、そこでマッサージ治療院を開業していました。従業員を15人ぐらい雇い、その半分が目の見えない人たち。私はその人たちにとてもかわいがられ育ちました。 ある時、従業員の女性が3歳の私を喫茶店に連れて行ってくれたことがあります。たぶん私をガイドヘルパーにして喫茶店に行きたかっただけだと思うのですが、その時に食べたハンバーガーが生まれてはじめて食べたハンバーガーで、忘れられない思い出です。 村田 自然に障害のある人たちがまわりにいる環境で育ったんですね。僕もそうだったので、親近感がわきます。 大村 夜7時頃になると、置屋(待合室)に従業員みんなが集まってくるんです。そこでマッサージ派遣の電話がかかってくるのを待つのですが、その間、点字のついた花札やトランプをしていました。 そんな環境で育ちながらも、一方で、ずっとモヤモヤしているものを抱えていました。 村田 それは、どんな? 大村 当然ながらみんな同じ人間です。なのに、なぜか不幸で、危うい状態になっていくんです。どうしてこうもみんな不幸になるのかと漠然と思っていたのが、小学校2、3年生ぐらいまでの私です。 村田 どういった状況だったのですか。 大村 そこにいる人たちは、目は見えないけれど手に職をつけている人たちばかりなので、給料も年金もあってそれなりにお金があるんです。そうすると、目の見える人がお金目当てに近寄ってくる。それで結婚してDVを受けて、逃げて戻ってくるといったことがありました。ほかにも人を騙したり、嘘をついたり、似たような話がいくつもありました。 人は生きようと思えば思うほど、ギリギリに追い込まれれば追い込まれるほど、平気で他人を引きずり下ろせるようになる。そんな場面をたくさん見てきました。 村田 それを幼い頃から見てきたというのは、大きな原体験ですね。 大村 当時はただモヤモヤしていただけですが、今の私なら言語化できます。これは社会的排除だったんだって。 だって、障害のある人たちが社会の一員として生きようとすると、どうにかして社会に入れてもらうという構図になるじゃないですか。そうして一員になれたら、今度はそこから落っこちないように必死にしがみつかないといけない。そうしないと生きていけないですから。少ないパイをみんなで奪い合うような状態です。 障害を学ぶ元気も勇気もなく 村田 そうした場面を見て育った大村さんにとって、障害や福祉を学びの対象にするのは自然なことだったのでしょうか。 大村 いえ、全くそうではなく、私には障害を学ぶ元気も勇気もありませんでした。だから大学での専攻は政治学です。たまたま高校時代にアメリカの政治をじっくり学べる授業があって、そこでアメリカの公民権運動や選挙制度について学び、すごく面白いなと思ったんです。 村田 どのような部分に惹かれたのですか。 大村 ダイナミックに四年ごとにかわる大統領選挙制度や、差別されてきた黒人たちが権利を獲得しようと運動してきた歴史の話がすごくヒットしたんですね。 今思えば、黒人が差別されている状況と障害のある人たちが置かれた状況を重ね合わせていたんだと思います。 でも当時は障害を学ぶつもりはなく、むしろ学びを通じて、もっと別の新しい世界にいきたいと思っていました。 村田 そこまでして障害から離れたいと思っていた。 大村 私にとっての障害は、言ってしまえば、不幸やドロドロしたものがまとわりついた嫌なものだったんです。私自身、スティグマを非常に内面化していました。 村田 今となってはスティグマの内面化と言語化できるわけですが、その頃はアイデンティティと切り離せないはずの障害をなるべく見ないようにされていた。 それにしても、障害者の不幸な状況を見て育った人が、自らケアをする側にまわるという話は時々聞きますが、そうはならなかったんですね。当時から社会の問題として捉える視点があったということでしょうか。 大村 必ずしもそうではないと思います。実は、大学に進学すると同時に、あん摩マッサージ指圧師の専門学校にも進学していました。 村田 ダブルスクールですか。それは大変だったでしょうね。 大村 大学の授業が終わったら専門学校に行き、大学の試験が終わったら次は専門学校の試験というふうにがむしゃらにやっていました。人にはおすすめしません(笑)。 村田 そこでマッサージ師の資格をとられたのでしょうか。 大村 そうです。私の周りには大学進学者がほとんどおらず、むしろ大卒なんて何の役に立つのかと思っていたところがあったので、手に職をつけないといけないと思っていたんですね。 障害に関わらないでおこうと思っても、やっぱり無関係にはなり得ず、自分の考え方や生き方にどこかで関係していたと思います。 村田 そのあとの就職活動はどうされたのですか。 大村 ちょうど就職氷河期と言われていた時代でしたが、なんとか二つの会社から内定をいただき、全社協(全国社会福祉協議会)で働くことになりました。 障害に向き合う 村田 少しずつ今のお仕事に繋がるラインが見えてきましたね。 大村 8年ほど全社協にいたのですが、そこでのすべてが今に繋がっていると思います。最初の2年間は生活福祉資金貸付事業という、障害者や高齢者にお金を貸す事業の制度設計に関わっていました。それから重症心身障害児施設にいき、全国老人福祉施設協議会や全国社会就労センター協議会の仕事もしました。 村田 だから大村さんは制度や予算の仕組みに詳しいんですね。 大村 ちょうどその時々で大きな法改正も経験しました。 老人福祉に関わっていた時に介護保険制度への移行、障害者福祉に関わっていた時に支援費制度への移行がありました。 村田 大きな法改正の節目でそれぞれに関わるお仕事をされていた。仕事がおもしろくなっていった頃だと思うのですが、そんな時にご退職されたのはどうしてですか。 大村 大きな理由は子育てです。当時いた部署は残業が多く、やりがいはあったのですが、幼い娘にほとんど会えず、我慢をさせていました。そのことがはっきりわかる出来事があり、これは方向転換した方が良いなと思いました。 もう一つ大きな理由があって、仕事で障害者や障害者をめぐる制度に関わり、やっぱり障害分野の仕事を続けたい、専念したいと思いました。 村田 これまで距離をとられていたけれど、やっぱりそこにいきたいと思われた。何か直接的なきっかけもあったのでしょうか。 大村 大きかったのは全社協を辞める直前に関わった全国社会就労センター協議会の仕事です。就労継続支援B型に関わる業務で、そこでは知的障害のある人たちが、クリーニングやレストランの仕事をしたり、物をつくる仕事を通じて社会と繋がっていました。 それは今まで私が見てきた、手に職をつけ働く視覚障害者の世界とは少し違うものでした。それがとても面白いなと思ったんですね。 村田 なるほど。そこから大学院に進学され、障害に真正面から向き合うことになるのですね。紆余曲折と言われるかもしれませんが、ここに至るまでのプロセスがとても大切だったのではないかと思います。 大村 在学中に二人目の子どもが生まれたので、博士前期・後期をあわせると7年間大学院にいました。それでも研究生活では師匠に恵まれ、ありがたいことに研究のかたわら相談支援事業所で相談支援の仕事もしていました。当時、相談支援事業は始まったばかりだったので、その現場を経験できたのも大きかったです。 村田 単純にアカデミックという話ではなく、経験されてきたことと実践とが三つ巴になって、今の大村さんがあるんだなと思いました。 障害学生の置かれた状況は遅れている 大村 大学院修了後は国立のぞみの園(注2)で研究員として働き始めます。そこでは五味洋一さん(注3)が同期でした。 村田 「ひと呼吸#3」で登場いただいた五味さんですね。のぞみの園の経験も大きかったですか。 大村 全国から500人以上の知的障害のある人たちが集まっている場所です。入所ではなく地域生活支援の時代になった今では、それっていったい何なの?と批判が集まるところでもあると思います。 でも入ってみると、真面目に、真摯に、障害のある人たちを支えている多くの職員がいて、たくさんのことを教わりました。 村田 のぞみの園のあとは、現在の筑波大学に赴任されるのでしょうか。 大村 そうですね。2015年にここへきて、五味さんの紹介もあり、先ほどの厚生労働省のモデル事業に関わっていきます。 村田 そこではじめて障害学生支援に関わられたのだと思いますが、最初はどのようなことを思われましたか。 大村 正直に言うと、大学に通う身体障害のある人たちの問題というのは、もう三十年も四十年も前に解決している話だと思っていました。 ところが重度の身体障害があって介助を必要とする人が、学内や通学時に介助を受けられないでいる。今更こんなことを訴えていかないといけないのかと驚きました。 村田 同感です。これは制度の谷間に落ちているという話で、制度設計の問題ですね。だから、制度を見直さなければいけないと結論は出ているわけです。でも、なかなかそうはならない。 そもそもこういったニーズのある人たちの大学進学が、日本の社会では想定されていません。それが大きな問題だと思います。 足りていないのは、ユーザー教育 村田 今の大村さんから見て、障害学生支援はどんなふうに見えていますか。 大村 まず大きい課題として感じるのは、障害のある学生自身が合理的配慮をいまいち理解できずにいることです。 特別支援学校ではなく、一般校出身の学生が増えたことで、障害と向き合う経験をせずにここまで来たケースが多くなっていると感じます。 例えば障害に基づく何らかの調整を申請する際に、その申請が実は本質変更であるのに、気が付かずにいる姿を見かけます。 大学に来てはじめて本質的な合理的配慮を受けるものだから、自分の申請する配慮のどこかがずれていても、それに気付けない。高校まではそれで良かったかもしれませんが、大学に入ると通用しない場面が出てきます。 村田 法制度が整ってきたのは良いことですが、本人の自覚がないままに物事が勝手に進んでいくようなことが起こっていて、そこにはずれたインクルージョンといったものも生まれていると感じます。 周りの人たちが「障害のある人と学ぶのは大切です」とか、「障害があっても頑張っているんだからみんなで支えよう」などと言って、包摂したような気になっている。 けれどもそこにはバリアが確かに存在して、肝心なところが包摂されていない。しかしながら本人も変に特別扱いされたくないので、なんとなく包摂されていることに満足してしまう。そうなると、あなたのニーズは何?と聞かれても、私はみんなと仲良くできたらそれでいいという答えが返ってきたりします。 大村 その通りですね。おそらくユーザー教育といったものが圧倒的に不足しているのだと思います。 例えば中等教育などで行われている自立活動の枠組みが、大学でも単位認定されると良いのではないかと思いますね。そこで社会モデルの視点を教える。 村田 非常に大事な話ですね。僕自身は今の日本の障害学生支援にはアドボケート(advocate)の視点が欠けていると思っていて、その話とも繋がるような気がします。 支援者や大学は、基本的にバランスの良いことを言いたがる。なるべく中立であろうとするのは良いのですが、本当に中立かというとそうではない。それは学生たちがバリアの存在に気付いていなかったり、それに気付くような教育を受けていないために、そもそも不利な状態にあるからです。 本当に中立であろうとするならば、支援者はもっとアドボケートを意識しなくてはいけないと思います。 経験の価値 村田 大村さんは現在、筑波大学で障害学生支援のアドバイザーをされていますが、現場で支援をする支援者という立場ではないので、客観的に障害学生支援を見られていると思います。そうした立場から、他にも課題として感じられていることがありますか。 大村 竹田一則先生の科研で、「大学における合理的配慮と支援モデルの最適化に基づくニューロダイバーシティの実現」(注4)という研究に関わって、発達障害の学生が社会に参加する時、どういうことがボトルネックになるのかをずっと考えていました。 そこで最も大きな課題だと思ったのが、職業準備性に関わることです。その人の職業準備性が整っていようが整っていまいが、大学3年生の終わりぐらいになるとみんなが始めるからという理由で就職活動を始める。現在、雇用市場でも障害のある人を採用する動きがあるので、働こうと思えば職ける場所が見つかりやすい状況にあります。 村田 あまり条件にこだわらなければ、働く機会は得られるような状況ですよね。 大村 それはある種、市場の歪みと言ってしまってよいと思います。本当はいろいろな経験を積んで、自分のことも知って、どういう仕事に就きたいかということを考えてから就職できた方が良いのですが、そんなことを考えなくても就職ができてしまう状況がある。 それは後々、不幸に繋がるかもしれない。もちろん良い経験になる可能性もゼロではないですが、望ましい状態とは言えないですね。 村田 先ほどの話とも関わりますが、本人が障害についての自覚がないままに事が進んでしまうことが起きているわけですね。 大村 そうですね。職業生活を送っていく上で合理的配慮が必要になるかもしれません。その時には本人がきちんと理解して、自分で申請できることが大事だと思うのですが、そこに大学時代の経験がとても効いてくると思います。特に、合理的配慮を受けるプロセスにどれだけコミットしてきたかということが問われると思います。 また、障害のある学生にはアルバイトやインターンといった社会経験も不足しがちです。本来ならそうした経験を積む中で、自分の適性や能力を客観的に知ることができる。けれどもそうした経験を得にくい状況にあるので、自分のことがよくわからない。 村田 やはり障害者の就職や就職活動、アルバイトやインターンを含めて、これまでの社会で想定されていなかったことが問題だと思います。 よく就職活動では自己理解が必要と言われますが、経験が足りないと難しい。キャリアを考えていく上で、周りの人と比べて自分はどうかという相対的な評価が不可欠だと思うのですが、それができる機会や場が、障害のある学生には少な過ぎます。 外の立場から 大村 一方で障害者雇用に限って言うと、障害者雇用は究極のジョブ型雇用だと言ってよいと思います。世の中の流れはジョブ型雇用に移行しつつあります。その先端に障害者雇用があると捉え、今後日本がジョブ型雇用に舵を切っていく際に参照できることがあるのではないかと思います。 村田 なるほど。そういったことは一つの大学でどうこうできる話ではなく、社会で考えていくべきことだと思います。 先ほども言いましたが、大村さんは一歩ひいた立場にいるからこそ見えること、言えることが様々にあると思います。ぜひそのあたりを今後も分析して提言していってほしいなと思います。個人的には、今後はもっと他分野、他領域の直接関係ないと思われるようなところから、障害学生支援を考える人が出てきてほしいと願っています。 大村 そうですね。荷が重いなあ(笑)。 村田 さてこのひと呼吸では、おまけのように、ご自身のひと呼吸は何ですか?という質問があるのですが、ぜひ大村さんのひと呼吸を教えてください。 大村 私の仕事は、能動性より受動性が求められます。相手がどうしたいのか、どんな人生を歩みたいのか、そういったことを聞きながら相手に寄り添う仕事です。 村田 そうですよね。 大村 ですから職業生活の中で、自分の能動性を発揮する機会ってあまりありません。そうなるとプライベートでは、なるべく自己操縦をしたいと思うんでしょうね。その手段がたぶん料理なんです。あえて面倒くさいことをするんです。 村田 どんなことを? 大村 例えば、スパイスからつくるカレー。何種類かのスパイスを挽いて調合します。それからドライイーストでなくて天然酵母からつくるパン。最近のお気に入りはりんご酵母です。これがとてもうまく育って、おいしくできました。それからトマト酵母もおすすめです。 村田 確かに、能動的でないとそんな面倒なことはやらないですね(笑)。 大村 そうそう、自分でやりたいと思わないとやらない行為ですよね(笑)。 村田 今日は大村さんのほんの一部ですが、お話をお聞きしていろいろ謎が解けた気がします。貴重なお話をありがとうございました。 (注1)大学等に通学する障害者に対する支援モデル事業 重度の身体障害のある学生の大学構内での身辺介助や通学時の介助が、従来の福祉制度では想定されていなかったことから制度を利用できず、家族等に介助を頼らざるを得ない状況がある。そうした問題を改善するため、実際に制度を利用して通学する全国の4事例を調査し、必要な体制整備を提言するために行われた厚生労働省によるモデル事業。 (注2)国立のぞみの園 独立行政法人国立重度知的障害者総合施設のぞみの園 重度の知的障害のある人への支援の提供および支援に関する調査や研究等を行う施設。1971年「国立コロニーのぞみの園」として群馬県に開園。 (注3)五味洋一 群馬大学大学教育・学生支援機構学生支援センター准教授、副センター長、障害学生支援室長 (注4)大学における合理的配慮と支援モデルの最適化に基づくニューロダイバーシティの実現 科学研究費助成事業における基盤研究(A)。2018年度から2021年度まで竹田一則(筑波大学教授)を代表者として、六つの研究班が構成された。 大村美保・おおむらみほ 筑波大学人間系 助教 大学卒業後、全国社会福祉協議会に8年間務め、生活福祉資金、障害や老人福祉に関する制度改正、国家予算要求等の業務を担う。退職後、大学院に進学し社会福祉領域で研究のトレーニングをするかたわら、相談支援事業所に相談支援専門員として従事する。2012年より3年間国立のぞみの園で研究員を務めた後、現職。研究テーマは障害児者の虐待・社会的孤立、知的障害者の加齢と高齢化、非行・犯罪行為のある知的発達障害者の支援など多岐にわたる。現在、筑波大学のBHE(ヒューマンエンパワメント推進局)にて障害学生支援のアドバイザーを務める。 Editor’s Note 2022年、秋。京都から筑波へ行くのにはそれなりに時間がかかるものですが、会いたい人に会いに行くという行為においては、それなりに時間がかかるというのは案外心地が良いものでもあります。 歩くことが好きな私は、つくば駅から時間をかけて筑波大学に向かいます。足下には不揃いなドングリとたくさんの枯れ葉が落ちていて、気がつけば、いつものようにそれらに手がのびます(枝でも、まつぼっくりでも、何でも「途中」で拾うのが昔からのクセ…)。 人はいつも「途中」を生きている。何かを決断した時でも、何かにたどり着いた時でも、それはその先の道の「途中」でしかありません。大村さんの生きてきた「途中」の積み重ね。それぞれの場面で考えたことや目指したこと、一つ一つは異なる要素に見えたとしても、それぞれが影響し合っていることがよくわかります。何より、仕事上はよく知っているつもりだった大村さんが、今回のインタビューで「立体的になった」というのが、私の率直な感覚でした。 ハングリー精神という表現がチープにきこえてくるほど、大村さんの経験とそこから生み出される感覚・表現力は魅力的です。そして、“周縁を視野に含むことができるセンス” は私もしっかりと見習いたいと思いました。 今回のインタビューもまた、お互いにとっての「途中」でしかありません。また違う場面で交わって、お互いの「途中」が更新されていくことが楽しみです。 (村田淳)