ひと呼吸第10号 リード文 私たちの日常。それは多くの営みの連なりである。 普段、それぞれの行為の意味を考えることは少ないが、ふと立ち止まって考えてみれば、そこには偶然と必然が潜んでいることに気づく。 呼吸。そのような自然な行為ですら、太古における偶然と必然の産物であったといえるかもしれない。 この『ひと呼吸』が、手に取った人の日々の呼吸(営み)を見つめ直すきっかけとなり、そして、それぞれの日常のなかでの「ひと呼吸(休息と起点)」になれば嬉しい。 本文 #10 Tsuchihashi Emiko Interviewer:Funakoshi Koju Text:Kitani Megumi 小見出し1「日々の中に手話があった」 舩越 「ひと呼吸」を読まれたことは…… 土橋 毎回楽しく読ませてもらっていて、それぞれの仕事を取り上げていただけると、知らないところでいろんなことをやってるっていうのもそうだし、逆に同じことで頑張ってるって知れるのも勇気づけられます。 舩越 それはありがとうございます。土橋さんはもともと、手話通訳をされていたのがこの仕事をされるきっかけだったと聞いたのですが、さらにさかのぼって、手話をされるきっかけって何だったんでしょうか。 土橋 大学時代、見えない友だちができたことが全ての始まりだったかもしれないですね。同級生に全盲の方がいたんです。よく一緒に過ごしていました。点字を覚え、紙に書かれた文字を点字にして、ガイドヘルプのようなこともしていました。支援っていう感じではなくて、友だちとして。だから視覚障害の人は身近な存在でした。 舩越 子どもの時にそういった経験があったわけじゃなくて、大学で。手話はその前から始められていたんですか。 土橋 いえ、手話はそのあとです。手話を始める前にその友だちと点字に出会いました。点字はプツプツと紙に打っていくんですが、机の上で黙々とやり続ける作業だったので、人ともコミュニケーションをとりたいっていう気持ちが出てきて。それでたまたま地元でやっていた手話教室に行き始めたら、まぁ手話の魅力にどんどんはまってしまい……。 舩越 どういう魅力だったんですか。 土橋 会話なのに音声を出さずにコミュニケーションがとれるところです。あいさつから恋愛話、家族のことも、あらゆることを手で話せるってすごいなと思いました。それに同じ大学生なのに聞こえないために学べない、でも自分が手を動かすだけで学びが実現する。それってつまり、支援をする人がそこにいなければ何も情報が入ってこないということなので、手話そのものが持つ意義に強烈なインパクトを受けました。それから急に手話に目覚め、没頭していきます。 舩越 水を得た魚のように。 土橋 まさにそんな感じです。手話は身につけたというより、毎日聞こえない人と一緒に過ごす中でわーっと入ってきて、勝手に身についていったような感覚です。 舩越 通訳はいつから始められるんですか。 土橋 学生時代にはもう始めていました。近畿聴覚障害学生懇談会(注1)って「近コン」って言うんですけど、当時そこに入っていて、他大学のろう学生に手話通訳をしていましたし、海外にも手話通訳で行く機会がありました。プライベートでは、ろうの方の結婚式に通訳として参列して、お母さんの代わりに育ててくれたおばさんのメッセージを手話で伝え、新婦さんが号泣されたのを今でも覚えています。そんなふうに日々の中に手話があって、手で伝え合う言葉のすごさを感じていました。とてもラッキーだったと思います。 舩越 学生時代は何を専攻していたのですか。 土橋 文学部で国際文化学科専攻でした。もともと異文化というものに興味があったんですよね。でも私の場合、国と国の異文化ではなくて、聞こえない人と聞こえる人、あるいは見えない人と見える人の異文化にすごく興味がわいていったんです。それで手話サークルを立ち上げたり。 舩越 とてものめり込まれていったわけですね。でもよく考えると通訳って不思議ですよね。多くの人が直接コミュニケーションをとっているところに、それが難しいから、本来その話題に入る必要のない人が立ち会うことになる。その異文化の間に入っていくわけですもんね。 小見出し2「通訳者とコーディネーターの違い」 舩越 そのまま大学を卒業して、通訳を続けられるんですか。 土橋 20代で結婚して、教育関係の仕事をしながら続けていました。しばらく埼玉で暮らしていたんですが、私たち夫婦ともに実家が京都なので、1歳と2歳の子どもを連れて京都に帰ることにしたんです。そのタイミングで手話通訳のできる人を探しているっていう話が舞い込んできて、今に至ります。 舩越 すごいタイミングですね。 土橋 ほんとうにご縁があったと思います。かつてヘレン・ケラーさんが同志社女子部で講演された時に、手話通訳をされた伊東雋祐先生(注2)という方がいました。そのご子息である伊東恵司さんが同志社大学の学生課の職員で、手話通訳のできる人を探されていて、そこに偶然私が帰って来たという……。子育ての真っ最中で大変な時期だったんですが、お引き受けすることにしました。 舩越 それが2001年頃で、そこから20年間、コーディネーターを続けられてきたわけですね。はじめの頃はわりとすんなりいけましたか。 土橋 いえいえ、山あり谷ありで、葛藤もありましたよ。通訳は言われたことを言われたままに伝えますが、大学のコーディネーターは通訳だけでなく仲介する立場でもあるんですよね。どうやって支援をしていくか、仕組みをつくっていくかっていうことも考えないといけない。 例えば、当事者が激しい口調で言ってきたことをそのまま伝えてもうまく伝わらない。学生の言ってることをなんとか大学に伝えるために、手話の表現を少し変えて通訳したこともありました。 舩越 でもそこにはすごく葛藤があったと。 土橋 そうです。今まで考えてきた異文化って何だったんだ、地域の聞こえない人たちと一緒に考えてきたことは何だったんだって。通訳者でありコーディネーターでもある自分が相反する状況でした。 そしてさらに大きな転換となったのが、2016年に施行された障害者差別解消法です。それまでは学生の「代弁者」として大学に伝えてきたのですが、法の施行によっていっきに本来の姿と考える「仲介者」になりました。 小見出し3「差別解消法の前と後」 舩越 それはどういうことですか。 土橋 これまでは学生の代弁者として、授業の担当の先生方にお願いをしてきたわけです。先生なんとかしてください、協力してくださいって。それが、学生が公平な授業を受けるためにはこれが必要ですって仲介するようになるんです。こちらが状況を整理して支援の選択肢を先生に提示する。そういうふうに立場が変わったのはすごく大きかったです。 舩越 学生の要求をお願いベースで伝えていくのではなくて、先生の授業がきちんと学生に届くよう支援をしていくということですよね。それは確かに大きな役割転換でしたね。 土橋 そうですね。同志社大学の場合は合理的配慮を提供することと、もう一本大きな柱があって、学生の成長に重きを置いています。その考え方と修学支援が相反することも出てきました。 舩越 例えばどういう感じですか。 土橋 学生の成長を促すために、学生同士で助け合うことを重視した考え方があるんですね。それはそれで大事なんですけど、いや、助け合おうと言う前に、支援部署としてしかるべき合理的配慮を提供すべきではないかということが出てくるわけです。 でも私たちは学生が社会に出ていくことを見据え、学生が人としても成長できるようにと願ってコーディネートをしてきました。だから同志社大学のコーディネーターには、これらにどう折り合いつけてやっていくかが問われる時があって、少し特殊だなと思います。 舩越 私立大学の場合はとくに、大学のミッションや理念というものが強くあることがありますね。同志社大学の場合、長い間の蓄積があるわけですからね。 土橋 はじめは合理的配慮という言葉も全く入ってこなかったんです。何回説明を受けてもうまく飲み込めないというか……。今までは学生の様子を見つつ、先生と地道に調整しながらやってきました。先生や私たちの裁量でやっていた合理的配慮にあたらない配慮、つまり、本人の成長のために支援してきた部分をどう調整するか考える必要が出てきました。 舩越 急に言い方も考え方も変わった。それはすごいドライな世界というか。 土橋 はい。法律ですし、感情や想いを混同させてはいけないと思います。今まで言い返せず説得もできず、渋々「わかりました」って言わされてきた学生の強い味方ですし、法律で決まっているんですって言い切れるようになったのは、我々にとっても大きいことです。でもそれは、ドライと言うのとはちょっと違う気もします。 舩越 なるほど。でも法律ができるまでは、わかり合うまで話し合うしかなかった側面もあったわけですよね。それが法律ができたことで、合理的配慮という言葉も出てきたから、わかってはいなくてもわかったかのように進んでいく時もあって、本当にわかっているのかってもどかしく感じる時もあります。 土橋 言葉の力が強くて、中身が伴わないということはあるかもしれませんね。例えば、試験時間を1.5倍に延長する合理的配慮がありますよね。それは大学入試センターが配慮としてやっていることを各大学もならってやっているわけですが、1.5倍の時間延長の根拠は何?って突き詰めて考えると、実はあいまいな部分が残ります。本当は1.5倍の時間延長では全然足りないかもしれない。障害の程度って個別に異なっているのに、問われることのないまま合理的配慮として前例にならったやり方で対応されているので、実際に即した支援が弱くなる気がします。 舩越 もともとは前例も基準もなく一つずつ考えてつくりあげてきたわけですよね。そこにある種の型ができたという感じかもしれません。 土橋 そうですね。法律施行前は、とにかく困ったら自分たちで解決策を考えてやってきました。大学が自ら動き出せた部分もあるし、自分たちでやり方を考えつくり出したこともたくさんあって、様々な引き出しができたと思います。 小見出し4「大学の外でのつながり」 舩越 そうした蓄積の中で生み出されたノウハウや工夫も含めて、新しいコーディネーターにはどのように伝えていってるんですか。 土橋 まさにそこが課題です。やってきたことを伝えるには、一つの大学だけでは難しいと感じてきました。一人のコーディネーターや一つの大学がもっている引き出しって限られますから。 そんなことを考えていたときに、大学コンソーシアム京都の指定調査課題(注3)というプロジェクトに関わることになって、コーディネーターがやっている仕事を可視化しようということになりました。おもしろいなと思ったのは、プロジェクトに関わった三大学とも、自分の大学でやっている取り組みや資料を包み隠さず全て出し合ったこと。そこで整理した資料やフォーマットを誰でもダウンロードできるようにしました。そのとき、可視化すること、それから学外とつながることの大切さを感じました。だからPEPNet-Japan(注4)やAHEAD JAPAN(注5)、HEAP、PHED(注6)といった学外のプラットフォームの存在はとても大きいです。 舩越 今は様々な連携機関やネットワークがありますよね。 土橋 はい。関西にもKSSK(注7)という懇談会があって、できた当初から関わっています。最初は数大学の障害学生支援の担当者が集まって、手弁当でやっていました。自分たちのように大学でひとりしんどい思いをしている人がいるならその人たちを救いたい、何でも話せる場として継続したいという想いで、KSSKの懇談会として引き継がれました。 参加者は年々変わっていくんですけど、だいたい50人前後の参加人数で一定しています。コーディネーターや担当者は、立場や雇用条件によって数年で異動したり辞めていく人もいるから、常に配属1年目の人が参加しています。 舩越 機能としては、流動化する中でも変わらない部分を担保していると言えますよね。 土橋 そうですね。障害学生支援というのは、当事者が支援を必要としている限り必要な仕事です。同志社大学には3万人弱の学生がいますけど、障害学生の数は1%も満たしません。大学の規模からすればその一部の学生のための支援ということになってしまって、内向きで小さな話になってしまうんですよね。 だからこそコーディネーターは外と関わりを持った方がいいし、現にKSSKが続いているのも一定のニーズがあるからだと思います。 小見出し5「マニュアルにはおさまりきらない支援」 舩越 コーディネーターの連携や養成も大切ですが、支援をする学生たちの育成もずっと続けられてきたわけですよね。そこでの苦労はなかったですか。 土橋 先ほどの障害学生数の少なさという話にも関わるんですが、同志社大学では、一人の障害学生を支援する多くの学生に視点を置いて支援制度がスタートしたという特徴があります。 支援学生の育成を20年近くかけてやってきたわけですが、学生は授業があって、サークルも行きたいし、アルバイトもしたい。たくさんやりたいことがある中で、支援活動にだけ力を注ぐのは難しくて、スキルの高い学生を養成するにはどうしても時間がかかります。 舩越 学生に支援を担ってもらうことには限界もあるかもしれませんね。 土橋 例えばパソコンで文字通訳をする時なんかは、機械トラブルもよく起こるので、パソコンの知識や直すスキルも必要になってきます。 舩越 必ずしもマニュアルがあればいいっていう話でもないですよね。 土橋 マニュアルは必要なんですけど、マニュアル通りにいかなくなった時に、何が原因でどの部分がダメだったのかがわからなくなってしまう。それでまた、マニュアルのためのマニュアルもつくらなければいけなくなります(笑)。 舩越 マニュアルにも限界がある以上、支援において重要なことってどう伝えていくべきなんでしょうか。 土橋 スキルの養成と並行して、人、つまりマインドの養成も必要なんだと思います。 合理的配慮というのも支援をするうえで対話が重要ですよね。支援をいくらしても平行線でうまくいかないとき、そこにマニュアルは役に立たない。 舩越 最近は人と関わる対人援助職でもAIの導入といった話が出てきていますけど、それにはどうしても置き換えられない部分が残りますよね。コーディネーターって、対話の渦のなかに身を置くじゃないですか。それは手話通訳もきっと同じで、人の間に立って、その中で揺れ動いたり悩んだりする。 土橋 人と人の関わりには、誰にも計算できない、機械じゃどうにもならないところがあります。だからこその怖さもありますが、コーディネーターである自分の発した言葉や表現によって、相手の捉え方も結果も変わってくることを意識しながら接したいと思っています。 小見出し6「変化に気付き、自分も変わる」 舩越 長年続けてくる中で変わってきたと思うことや、今後変わっていくと思うことはありますか。 土橋 本学は2021年度からスチューデントダイバーシティ・アクセシビリティ支援室に改組して、身体に障害のある学生に加えて精神、発達に障害のある学生の修学支援も行う窓口になりました。これまで以上に私自身の発する言葉が問われる場面も出てきました。身体障害の学生の相談に乗る時は、意図していろいろな選択肢を示しつつ、決めるのはあなただからねって、本人の意思を尊重しながらやってきました。 一方で、たくさん選択肢があったりあいまいな表現を苦手とする学生には、一つの、しかも明確な答えを提示することが求められるというか。これまでとは違った形で本人と接する必要が出てきました。 舩越 さらに別の仕方で、コーディネーターとしてのセンサーを働かせる必要が出てきたということでしょうか。 土橋 そうですね。新たなセンサーです。大切なことは、本人の「勉強したい」という要求に対して、本人が納得できるように調整することと、本人の存在を認めることかなと思います。 舩越 それはすごく大切なことだと思います。 土橋 さらに言えば、どのような困り感を持っている学生にも、他の学生と同じ学びができる環境を整えることは当然ですけど、障壁が見えづらいので、コーディネーター間の連携も必須です。 舩越 相手の求めているところが何かを個別に、しかも一人のコーディネーターだけでなく複数で考えていくということですね。でもそれこそマニュアル化もできないし、簡単にできることではないだろうと思います。 土橋 おっしゃる通りです。経験がいくらあっても失敗がある。失敗した時は、自分のやり方を変えるチャンスだと思っています。コロナ禍が始まった時もそうでしたけど、支援ってどれだけ準備していてもうまくいかない時があるので、どう転換できるかっていう発想をもつことが大切だと痛感しました。 舩越 なるほど。僕もそんなときは「どっちに転んでも、しめた」って思うようにしています。失敗したらしたでそれも結果。そこからまた新たな気持ちで前に進み直すのもいいことだと思うんですよね。 舩越 さて、最後に大事な質問があるんですが、失敗した時もうまくいった時も、その時に土橋さんがしているひと呼吸はどんなことですか。 土橋 やっぱりおいしいお酒を飲む時間をつくることです。失敗した時のひと呼吸は、一人カウンターでじーっとお酒を飲む。うまくいった時は仲間と一緒にお酒を飲む。これですね。 舩越 いい時間をきちんと持てていますね。というより、持つようにしているのかも。だから続けていけてるのかもしれませんね。 プロフィール 土橋恵美子・つちはしえみこ 同志社大学学生支援センター スチューデントダイバーシティ・アクセシビリティ支援室 チーフコーディネーター・手話通訳者 2002年より手話通訳のできるコーディネーターとして着任。2011年同志社大学総合政策科学研究科ソーシャルイノベーションコース前期課程修了。2011〜2012年に筑波技術大学客員研究員。現在同志社大学及び岡山理科大学にて講師を務め「支援する・支援される」をキーワードに、障害体験やディスカッションを取り入れた授業を行う。 (注釈) 注1 近畿聴覚障害学生懇談会 現在は「近畿ろう学生懇談会」。1959年に設立され、地域の聴覚障害学生が中心となり活動している。 注2 伊東雋祐・いとうしゅんすけ 1927年京都府生まれ。1949~1988年に京都府立聾学校に勤務するかたわら、ろう者の権利獲得のため、ろうあ運動に尽力した。2006年に永眠。 注3 指定調査課題 大学コンソーシアム京都による2016年度指定調査課題。テーマを「大学での障害者差別解消法へ向けたアクセシビリティと合理的配慮のDBの構築―障害学生支援室連携組織の設立へ向けて―」とし、京都大学の吉田哲准教授が代表を務めた。資料提供には同志社大学・京都産業大学・京都大学が協力し、提供された50種を越すフォーマットは自由に閲覧・ダウンロードできる。 注4 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan) 全国の高等教育機関で学ぶ聴覚障害学生の支援のために立ち上げられたネットワーク。筑波技術大学を拠点とし全国の大学・機関により運営。 注5 全国高等教育障害学生支援協議会(AHEAD JAPAN) 高等教育機関における障害学生支援に関する相互の連携・協力・体制の確保、実践交流、調査・研究及び研修・啓発の実施により、支援の充実並びに学術研究の確保に寄与することを目的とした全国協議会。 注6 障害と高等教育に関するプラットフォーム形成事業(Platformof Higher Education and Disability) 2017年に発足し、東京大学に拠点を置く。「障害学生支援スタンダードの構築」「キャリア移行と就労支援」「障害学生のエンパワメント」の三つを柱に掲げる。 注7 関西障がい学生支援担当者懇談会(KSSK) 関西にある大学の障害学生支援に携わる実務担当者の交流会。2006年日本学生支援機構により石田久之氏(元筑波技術大学教授)を中心に始められた研究会を前身とし、2008年に現在のKSSKが発足。2015年からは大学コンソーシアム京都が運営を引き継ぐ。 Editor’s Note 取材の日は同志社大学寒梅館の紅葉が京都らしく色づく秋の日でした。COVID-19で皆さんと会えない日々が続き、一同久々の再会。いつも凛とした中でも笑顔あふれる土橋さんは元気印のままで、なんだか嬉しく妙に安心感を覚えました。2001年からの20年間!の積み重ねを伺うには、取材時間はあまりにも短すぎました。でも、積み上げてこられたからこその揺るがない思い、カタチ作ってこられたからこそ感じられている風を言葉にしていただく貴重な時間になったと思います。スマホの無い時代には戻りそうにないのと同じように、障害学生支援も法律や制度の影響を受けない時代には戻らないでしょう。でも「それ以前」をご存じの土橋さんからは、障害と非障害の橋渡しだったり、人が人らしくあることをつないだり支え合ったりする営みは、法律や制度があるからやるものでも縛られるものでもない。一人ひとりを大事にしたいという、人間にとって基本的で根源的な思いに依拠してやって、やっぱり良いんだということを確認させてもらった気がします。これからまた10年20年と経った時に振り返りながらどんなお酒を飲めるか、今から楽しみにしています。その時もどうかお付き合いください。 (舩越高樹) Concept 障害のある学生が高等教育にアクセスする権利を保障するための取り組みである「障害学生支援」には、その主人公である学生と対話し、ともに行動してきた多くの実践者たちの存在があります。こうした実践者一人ひとりには独自のバックグラウンドがあり、またそれぞれの考え方や想いをもって形作ってきた歴史があります。私たちは、これらの「人」によって蓄積されてきた考え方やその想いを知ることが、これからの障害学生支援を考えていく上で貴重な機会となり、この分野の魅力を知ることにつながると考え、この『ひと呼吸』を発行することにしました。ここに綴られているのは、私たちを含めた一人ひとりの関係者にむけた応援のメッセージです。 ひと呼吸・編集委員会 村田淳(京都大学)、舩越高樹(国立高専機構本部)、宮谷祐史(京都大学)、木谷恵(フリーランス) クレジット 発行/高等教育アクセシビリティプラットフォーム(HEAP) Address 京都市左京区吉田本町 京都大学学生総合支援センター内 Web https://www.gssc.kyoto-u.ac.jp/platform/ Mail heap[@]mail2.adm.kyoto-u.ac.jp Tel 075-753-5707