ひと呼吸第7号 リード文 私たちの日常。それは多くの営みの連なりである。 普段、それぞれの行為の意味を考えることは少ないが、ふと立ち止まって考えてみれば、そこには偶然と必然が潜んでいることに気づく。 呼吸。そのような自然な行為ですら、太古における偶然と必然の産物であったといえるかもしれない。 この『ひと呼吸』が、手に取った人の日々の呼吸(営み)を見つめ直すきっかけとなり、そして、それぞれの日常のなかでの「ひと呼吸(休息と起点)」になれば嬉しい。 本文 #7 Kusakabe Takashi Interviewer / Text Murata Jun 村田 日下部さんは、この仕事をはじめて何年目になるんですか。 日下部 もう8年目になりますね。 村田 そもそも、どのようなプロセスでこの仕事に就くことになったんですか。 日下部 僕、大学では心理とかを全く学んでいないんです。大学は部活でサッカーをするために入学しました。ただスポーツ推薦をもらえるような実力もなかったので、一般入部で実技試験を経て、なんとか部に入ることができました。本当にサッカーしかやってなくて、就職活動も全然。卒業後はそのままフリーターになって、働きながら科目等履修で教員免許を取ったんです。それがこの仕事に繋がるきっかけですね。 村田 なんで教員免許を取ろうと思ったんですか。 日下部 祖母が教員だったことも少し影響していますが、やはり大学時代の部活動の経験が大きいですね。実力勝負で本当に厳しくて…自分自身がうまくいかないことが多かった。この経験があったので、うまくいかない生徒の気持ちならわかるかもしれないっていう漠然とした考えで教職をとりました。 村田 ちなみに教員免許はどういうカテゴリーの免許ですか。 日下部 商業の高校一種免許ですね。大学でも商業系を学んでいたので。その後、縁があって横浜にある高等専修学校で教員生活がスタートしました。そこから人生が変わっていきます。 小見出し1「多様な生徒との出会い」 日下部 そこはもともと中学校時代、いわゆる不登校だった生徒がほとんどで、その中にコミュニケーションが苦手な生徒や、様々な障害のある生徒、やんちゃな生徒まで本当にいろいろな生徒がいました。文字通り多様性の集まりっていう感じの学校ですね。はじめは全く通用せずで…。発達障害者支援法が施行された2005年に初めて担任を持つんですけど、クラスに自閉症の生徒がいたんです。コミュニケーションは一方的で、授業中に突然大きな声を出したり、休み時間は教室の後ろでぴょんぴょん跳ねている。一方で、得意なパソコンについては誰よりも詳しい。この子はいったい何なんだろう…と、驚きと同時に「もっと知りたい!」と思いました。これが「衝撃・その1」でした。僕自身、恥ずかしながら、それまで発達障害のことをほとんど知らなくて、その生徒との関わりを通して一から教わったという感じです。 村田 最初から教員になりたいわけではなかった。でも、教員になってみたら知らない世界があったという感じですね。イレギュラーという言葉が正しいかわかりませんが、少し変わった経緯で教員になったことで、一つひとつのことに純粋に衝撃を受けたと同時に、何も知らないからこそ型通りの対応をしなかった。 日下部 もうおっしゃる通りですね。そして、そのことを周りの関係者が見守ってくれたということもありがたかったですね。もしかしたら、他の高校だったらそうはいかなかったかもしれません。生徒はもちろん、そのときのいろんな出会いが僕の中で根幹になっているなと、改めて思いますね。 村田 そして、そこで日下部さんのエンジンがかかったわけですね。 日下部 教員生活は8年ほどやることになりますが、その間にいろいろな経験をして自分の興味関心が変化していきました。あるとき、発達障害のある生徒が「大学に行きたい」と言ってきて、その生徒と保護者と一緒に大学のオープンキャンパスに行くことになりました。いくつかの大学で発達障害があることを伝えると、前例がないから支援ができないとか、受け入れられないって言うんですよ。2006年頃なので、もう随分前の話にはなりますけど。 村田 門前払いですね。 日下部 しかも本人の目の前でそれを言う。もう本当に信じられないことだったんですけど、それがいくつもの大学で起こるんですよね。今だったら障害学生支援の部署があったりするけど、当時はそんなものはほとんどないから、大学としても難しい事情はわかるけど、愕然というか、怒りみたいなものを感じました。そんなとき、たまたま新聞で、いくつかの大学で発達障害のある学生の支援が行われているという記事を読んだんです。その記事には富山大学のことも書いてあって、横浜で西村先生(注1)の講演が聞けるというんで行ってみたんですが、そこで聞いた富山大学の取り組みが「衝撃・その2」でしたね。 村田 何が衝撃だったんでしょうか。 日下部 全学的な支援体制の話や「『オフ』と『オン』の調和による学生支援」(注2)もすごいなと思ったんですけど、何よりナラティブ・アプローチ、対話による支援という形での学生との向き合い方、スタンスですよね。本当に衝撃を受けて、「これだ!」と思うと同時に勇気をもらったというか、そんな感覚でした。自分のやっていることが肯定されたような気がして、そこからは大学から断られ続けてもとにかくやるだけやってみようと。そしたらようやく前向きに話をしてくれる大学が出てきたんです。生徒本人も行きたい大学だったので、本当に嬉しかったですね。そして無事に合格もして、今でいう高大移行支援の準備をしていくことになりました。生徒本人の中学校や高校での支援記録など、膨大な資料を集めて大学に提出しました。あと、その大学の教職員の方に対して、発達障害に関するプレゼンもやりました。「僕もこの間、発達障害のこと知ったばかりだぞ」と思いながら、わざわざスライド資料まで使って(笑)。今考えるとよくやったなと思います。 村田 すごいパワーですね。そんな高校の先生、他に知りませんよ(笑)。でも、それが必要だったということの裏返しでもあります。 日下部 その後、横浜市で2年間のモデル事業(注3)に関わる経験もしました。そのときのテーマが、小中高大の支援を縦で繋いでいくというものでした。そのときに富山大学から西村先生にも来てもらって、今に繋がる縁ができていくことになります。 村田 ちょうど初中等教育でも発達障害のある児童生徒への対応について、変化が顕著になってくるタイミングですね。 日下部 一方で、現場はまだまだ課題山積みでしたよ。1年生のクラスを持ったときなんですけど、入学してきたばかりの生徒が、進路希望に「特例子会社に行きたい」と書いてきた。その生徒は発達障害があって障害者手帳も持っていたんですけど、勉強もできて、知識を学びたいという思いも強い子だったので、なんで大学進学が進路選択に入らないんだろうって純粋に疑問を持ちました。いろいろな選択肢の中で進路を考えていくことが大事だと思うんですけど、なかなかそれが実現していない。この頃から、実際に大学の現場で支援がしたい、できることなら富山大学に行って、富山大学の現場で働きたい、と強く思うようになりました。 小見出し2「大学の支援者になる」 日下部 ただ早い段階で、想いだけではすんなりといかないことがあるんだと気付くことになります。僕は大学時代に心理も福祉も学んでいない。教員としてやってきただけで、何か支援に関する資格を持っているわけでもないし、大学院を出ているわけでもない。大学の支援現場って、経歴や資格がないとその時点で応募することもできない。そもそも募集自体もない時代でしたし、4年間くらい探していて、もう無理だなって半ば諦めていたんですけど、そんなときに富山大学の募集を知りました。しかも、形式的な資格が応募要件になっていなかったんです。確か、京都大学もそうですよね。 村田 はい、そうです。そういう募集要項って案外珍しいんですよね。 日下部 そして、願ってもないことに富山大学と縁があった。ただ当時、子どもが生まれたばかりで、家族のことも大切にしたい。迷いは小さくなかったですね。場所も大きく離れますしね。今振り返っても家族の負担は大きかったと思います。ただ、それでも、僕の中では富山に行く以外の選択肢はなかった。「絶対に富山大学に行きたい」って。ノープランもいいところですよね(笑)。僕の悪い癖です。勤め先の校長先生からも最終的には、「もう言っても聞かんだろう、行ってこい」と言ってもらって。ものすごく感謝していますね。いろんな人に迷惑かけましたけど、やっと富山に来れた。 村田 ドラマチックですね。僕も同じくらいの時期にこの仕事を始めることになりますけど、この分野は今でもそうですけど、当時はもっと混沌としていてそれ故の不安感もあったと思いますし、法整備もままならない中で大学独自で枠組みを作っていかなくてはいけない時期でもありましたね。おそらく、富山大学であっても先進的な取り組みをしながら、どんどん変化させていくということが求められていたんですよね。 日下部 本当にその通り。それがまた面白かったですね。学生と向き合って直接支援することの面白さややりがいだけでなく、学生にとってより良いものを考えていくというところをシンプルに目指せるのが面白かった。 村田 それを面白いととらえられる日下部さんを選んだ富山大学もさすがだなと思います。 日下部 いやいや、大学が後悔していなかったらいいんですけどね(笑)。あとは、やっぱり家族の理解ですかね。当時は3年間の有期雇用だったんで、今考えても理解を得ようとするなんて本当に無謀だったなと。 村田 それは覚悟みたいなものですよね。日下部さんのその覚悟が中途半端なものだったら、周りの方も違う反応になっていた可能性があったと思いますよ。 日下部 みんなに応援してもらって自分のやりたかったことをやらせてもらっている。だからこそ、というところはありますよね。富山に来てからも、今までのフィールドとは違うことがたくさんあったから、西村先生達から丁寧に教わりました。富山大学はやっぱり対話による支援、ナラティブ・アプローチによる個別面談をしっかりやる。これが自分の感覚としてもすごく理にかなっているように思えました。目の前の現実を動かしていかなきゃいけないなっていうのを改めて感じましたし、ナラティブ・アプローチによる個別面談のやり方をもっと早く知りたかったなと思いました。 村田 さらに、高校と大学とでは組織の違いも大きい。そうすると支援の位置付けも当然異なってくる。 日下部 そうですね、イメージしていた以上のことが起こっていたと思います。でも共通しているところもあって、高校教員としても生徒を企業や支援機関に繋ぐという経験があったので、その経験をいかして富山に来てからも積極的にハローワークなどとの連携を始めました。 村田 大学での支援って、大学としてどこまでやるべきかとか、よく議論になるような気がしますけど、日下部さんにとってはそういうものに縛られずに色んなアクションを起こしていく。それが学生のためになるなら、ということを感じますね。もちろん、何でも大学が引き受けるということではないというバランス感覚はお持ちなんだと思いますけど、その積極的でポジティブなアクションが、大学や社会を動かしていく原動力になるような気がします。 日下部 もういくしかないよね!みたいな(笑)。 小見出し3「修学支援と移行支援」 村田 大学での支援者になってから、様々な取り組みもされてきたと思いますけど、社会移行の話も伺いたいと思います。 日下部 もちろん、大学なのでまずは修学支援というか、その場で起こることへの個別支援がコーディネーターの主たる仕事だと思っています。ただ、その過程には必然的に移行支援のことが出てきますし、そこは意識しながらやっていますね。 村田 富山大学としても様々な取り組みをされていると思いますが、特に卒業後のフォロー(注4)や高校生向けのプログラムは特徴的なところかと思います。 日下部 卒業後のフォローについては、それをやろうと思って始めたというよりは、自然に、必然的に始まっていったという感覚です。卒業生が社会人として、地域社会の中でなかなかうまくいかないというようなことから始まっていますね。あとは、高大接続の取り組みとして、毎年夏に発達障害のある高校生に向けたチャレンジカレッジ(注5)というプログラムがあります。今年の夏もすごく面白かったですよ。期間中に参加者も本当に変化していきますし、運営に関わる大学生にも良い経験になっていると思います。 村田 高校から大学への移行というのは、大学として取り組むことの理解は得られやすいと思います。大学の受け入れ準備というか、そういうものへの影響もありますしね。一方で、卒業後のフォローというのは、大学がいつまで支援するのかという議論の対象になりやすいように思いますが、このあたりはいかがでしょうか。 日下部 卒業後のフォローって、基本的にはその学生、つまり卒業生のためにやることではあるんですけど、実は在学生の支援を行う上でも財産になっている部分があるんですよね。単純に、卒業生が経験していることを伝えるだけでも参考になりますしね。けっこう周りからは卒業後のフォローって大変でしょとか、マンパワーは大丈夫?と言われることは多いですけど、彼らの状況を把握しておくことが在学生のメリットにも繋がっていると思います。 村田 それは、すごく面白い話ですね。ともすれば、卒業後のフォローってオプション的なサービスのように見えてしまうところがあると思うんですけど、卒業後をフォローすることによって、支援者としてもいろいろな情報を得ることができて、在学生にもいかされていくと。 日下部 おっしゃる通りです。支援の効果を高めるというところに、すごく繋がっていると思います。さらに、卒業後をみるっていうのは、自分たちがやってきたことの振り返りにもなりますからね。 村田 ぜひ多くの関係者に知ってほしいですね。障害学生支援という仕事では、その支援の評価をどのように考えるかがなかなか難しいですよね。単位が取れたら良いのか、就職できたら良いのかっていうと、もちろんそうした結果は重要なんですけど、それだけではないと思っています。その中で、卒業生をみることによって自分たちの支援を評価できるっていうのは面白い視点ですね。 日下部 コストをどう考えるのかという事情や背景はもちろんわかります。僕もそのことを考えない訳ではないですけど、単純にそれは二の次って思っちゃう。必要だし、面白いし、色んな意味で効果や意義があるということがわかっているからやっている。体感的なものではあるけど、そこの直感が判断にも影響していると思います。 村田 日下部さんとしては、色んな環境の変化や個人の変化があったと思うんですけど、すごく一貫しているなと思いました。ただ、それを繋げていけるセンスというか、人間性みたいなものを感じます。例えば、想像していたことと違うことがあったとしても、そこで思考停止しない。そこからどうするかを考えるところに、自動的にシフトしていく。その繰り返しですよね、この仕事って。 日下部 僕自身うまくいかなかったことが多かったし、本当に苦しい経験もしてきた。この仕事をやりたいなと思ったときにも、資格もなければ大学院も出ていない。自分は何にも持っていないという劣等感が僕の根底にずっとあるんですよね。だけど、そこが学生支援をするときにはいきているのかもしれないです。コーディネーターって、何かを教えるわけでもなければ、指導したり、問いただしたりするわけでもない。学生自身が自分で対処法を身につけられるように関わる、どちらかと言えば一緒に考える人っていう存在なんだと思います。短期的な問題解決が必要になる場面もありますけど、やっぱり学生本人が置いてきぼりになってはいけない。当たり前のことですけど、これは絶対。本当は、支援っていう言葉は後押しするという意味なのかもしれないですけど、個人的には一緒に考えようということだと解釈していて。本当にその繰り返しですよ。 村田 何をやっている人ですかと聞かれて、「一緒に考える人」っていうのは、何とも日下部さんらしいです。 日下部 いろんな考え方があると思うんですけど、僕にとってはそうですね。もちろん、仕事としてやっている以上、専門的なアドバイスや提案ができるということも求められると思いますし、そこはバランスを考えながらやっていかないといけないです。そのあたりは、富山大学でたくさん学ばせてもらいました。特に、面談では丁寧に話を聞いて、事実を扱うようにして、それらを整理した上で解決や解消のための道筋とか実行に移すための方策を立てて、その部分も支援する。何よりも支援のプロセスを通じて、学生自身が自らの対処法を学び、成熟していくように関わることが大切だなと。相談しながら自己理解を高め、自分自身で選択して動いていく力をつけてほしい。なんだか自分でもできていないようなことを偉そうに言ってますけど、実際に自分も学生と一緒に成長したいっていう気持ちが強いんですよね。 村田 これがやりたかったっていう原動力があるのは、すごく強いですね。いろいろな巡り合わせもあったと思いますが、そこには日下部さん自身の人間力や経験、そして感覚というものが大きく影響していると思います。はっきり言って、支援がうまくいってる大学ばかりじゃないですし、一定水準になっていると思われる大学でも課題は少なくないはずです。ただ、それぞれの大学ごとに支援体制やシステムを構築する経緯、そしてそこで働く人たちとの縁はあるはずで、それが強みとなって最後は学生たちに還元されていく。その一つのモデルを日下部さんや富山大学に見せてもらったような気がします。 村田 それでは、最後の質問です。 日下部 やっぱりアレ聞かれるんですか(笑)。他の人の記事をいつも拝見していますが、例の質問ですよね。 村田 バレていますね(笑)。はい、では躊躇なく聞きます。日下部さんにとっての「ひと呼吸」ってなんでしょうか? 今日のお話をうかがっていると、仕事そのものがライフワークのようにも感じられますが。 日下部 いやいや、もちろん仕事は大好きなんですよ。まあ、でもそれだけというわけにもいかないですしね。これといった趣味はないんですけど、基本的には外に出て何かするっていうのが好きなんで、家族で買い物に行ったり、公園に行ったりということが、一番リラックスする時間だと思います。あとは、もともと、スポーツをずっとしてきたから、もっと身体を動かしたいなという気持ちはありますけど、今はそこまではできていないかな。でも最近、子どもとボルダリングに行ったんですよ。それはすごくリフレッシュしましたし、もっと子どもと一緒に何か運動ができると良いなと思います。そこで汗をかいて元気になって、また仕事の現場で汗をかく(笑)みたいな感じかな。 プロフィール 日下部貴史・くさかべたかし 富山大学教育・学生支援機構学生支援センターアクセシビリティコミュニケーション支援室 コーディネーター(特別支援教育士) 大学卒業後、高等専修学校(高校)で教員として勤務。主に担任としてクラス経営を中心に、発達障害のある生徒の進路先開拓に力を入れ、高校から大学への移行支援や企業や就労移行支援事業所等との連携に従事した。2008年~2010年には、横浜市発達障害者支援モデル事業にも携わる。2012年9月より現職。コーディネーターとして主に発達障害学生への修学支援や社会参入を見据えた就職活動支援、卒業後フォローアップ支援を担当している。 (注釈)  注1 西村優紀美 富山大学保健管理センター准教授。富山大学教育・学生支援機構 学生支援センター副センター長、アクセシビリティ・コミュニケーション支援室長。 注2 「オフ」と「オン」の調和による学生支援 文部科学省の事業「学生支援GP」の一つとして採択され、2007年度から4年間にわたって実施したプログラム。社会的コミュニケーションに困難を抱える学生に対して、オフラインとオンラインの二重支援を構築し、オフラインでは面談等の直接支援、オンラインではSNSを活用し、問題を抱える学生への継続的な支援を実施している。 注3 横浜市発達障害者支援モデル事業 ライフステージに応じた発達障害児者への先駆的な取り組みをモデル的に実践・評価し、有効な支援法を確立することを目的に「発達障害者支援開発事業」として2008年から2010年まで実施された事業。 注4 卒業後のフォロー 富山大学では、発達障害学生に対して、原則、卒業後1~3年の支援を行う方針を共有し、フォローアップ(就職活動及び職場への定着)支援を実施している。 注5 チャレンジカレッジ(発達障害のある生徒の大学体験プログラム) 将来的に大学への進学を希望している発達障害のある生徒に対する大学体験プログラム。大学での生活や、大学では何を学ぶのか等について、先輩の大学生や大学の支援者から話を聞くことによって、大学生活のイメージを確かなものにすると同時に、自分に合った進路選択ができるようになることを目的とする。2012年度より実施。 Editor’s Note 僕自身もまだ駆け出しの頃。「富山大学に元気な人が入ったよ」、そんな噂を聞いてから、その本人である日下部さんに出会うまでに、それほどの時間はかかりませんでした。その当時(といってもほんの数年前ですが)は、そのような噂がすぐに伝わるほど、この世界(業界)が狭かったということはあるかもしれませんが、何よりお互いが、自分たちのミッションや目指しているもの、願いのようなもので繋がり、支え合っていたのかもしれません。いつも近くにいるわけではないし、頻繁に連絡を取り合うわけでもない。ただ、どこかで誰かがこの領域で頑張っているということを意識できたことが、暗中模索の僕たちにとっての「道標」となっていました。 では今、そうした状況が変わったのか。そのような問いそのものが意味のないものに思えてくるほど、一人ひとりの学生は個別的で多様であり、社会は移り変わっていきます。そして、きっとそれは日下部さんも共通して感じているのではないかと。僕と日下部さん、年齢は一つ違うだけの同世代。自分のこれからがどうなるのかはともかく、僕たちのフィールドには、明日も「やりたいこと」と「やらなければならないこと」で溢れている。インタビューの帰り道、富山市内を走る市電でそう思った。 (村田淳) Concept 障害のある学生が高等教育にアクセスする権利を保障するための取り組みである「障害学生支援」には、その主人公である学生と対話し、ともに行動してきた多くの実践者たちの存在があります。こうした実践者一人ひとりには独自のバックグラウンドがあり、またそれぞれの考え方や想いをもって形作ってきた歴史があります。私たちは、これらの「人」によって蓄積されてきた考え方やその想いを知ることが、これからの障害学生支援を考えていく上で貴重な機会となり、この分野の魅力を知ることにつながると考え、この『ひと呼吸』を発行することにしました。ここに綴られているのは、私たちを含めた一人ひとりの関係者にむけた応援のメッセージです。 ひと呼吸・編集委員会(HEAP×Kyoto Univ.DSO) 村田淳、舩越高樹、宮谷祐史、木谷恵 HEAP:高等教育アクセシビリティプラットフォーム Kyoto Univ.DSO:京都大学 学生総合支援センター 障害学生支援ルーム クレジット 発行/高等教育アクセシビリティプラットフォーム(HEAP) Address 京都市左京区吉田本町 京都大学学生総合支援センター内 Web https://www.gssc.kyoto-u.ac.jp/platform/ Mail d-support-pfm[@]mail2.adm.kyoto-u.ac.jp Tel 075-753-5707