ひと呼吸第5号 リード文 私たちの日常。それは多くの営みの連なりである。 普段、それぞれの行為の意味を考えることは少ないが、ふと立ち止まって考えてみれば、そこには偶然と必然が潜んでいることに気づく。 呼吸。そのような自然な行為ですら、太古における偶然と必然の産物であったといえるかもしれない。 この『ひと呼吸』が、手に取った人の日々の呼吸(営み)を見つめ直すきっかけとなり、そして、それぞれの日常のなかでの「ひと呼吸(休息と起点)」になれば嬉しい。 本文 #5 Sakai Haruna Interviewer / Text Kitani Megumi 小見出し1「バリアフリーは自由を得るための条件」 木谷 今日は、どこまでさかのぼってもらってもいいので、酒井さんがいまこの障害学生支援の仕事をしている理由というか、ルーツみたいなところからお話を聞きたいと思っています。 酒井 縁があってこういう仕事をしているわけですけど、一番は自分が当事者ということにあるかなと思います。 14歳のとき、ホームルームで突然倒れてそのまま入院して、左足と腰に麻痺が残って車いすを使うことになりました。若い人では特に珍しいらしくて、10年に一人あるかないかとも言われました。医者には治るかもしれないって言われていたから、中学三年生の私は普通に治るって思っていました。だからあんまり自分が障害者っていう自覚は無かったんですが、高校に進学してからいろいろなことが出てきました。親が送り迎えをしてくれていたんですが、なるべく大変じゃないようにって祖母の家の近くの高校をあえて受験したんです。でも建物がすごく古くて、全くバリアフリーじゃなかったんですよ。エレベーターがついていなかったから、キャタピラみたいなジャカジャカと大きな音を立てて階段を昇降する機械を使って毎朝母が私を教室の階まであげてくれて、体育や美術の教室移動の時間になると友だちが助けてくれる。それでまた授業が終わって母が迎えに来るまで、一人でずっと教室で待っている。そんな高校生活でした。だからだんだんと引きこもりがちになっていきました。 木谷 気が付けば、周りのみんなとは違う状況に置かれていたわけですね。 酒井 そう、だから高校生になって、自分ではあんまり何も変わっていないつもりだったのに、周りが変わっていった感覚です。なんだか同情されていると思うようになって、そこにちょっと違和感が出てきました。そうした違和感と不便さから高校三年間はあまり明るくは過ごせなかった。 木谷 そういう状況だと考えますよね。なぜ自分だけ周りと違うのか、どうしてこんな思いをしなきゃいけないのか、って。 酒井 そうですね。自分がそういう障害を持って生活が一変する体験をするなかで、漠然と福祉というものに興味がわいてきて、大学で勉強したいと思いました。それともうバリアフルな環境はいやだというのもあって、地元熊本のアクセシビリティが整っている大学で福祉を専攻することにしました。そこから、また一変しました。大学にはエレベーターももちろん付いていて環境が整っているから、全然困らない。通学も、車の免許を取ってからは自分で好きな時間に行けるようになりました。あの高校生のときはいったい何だったんだろうって思いました。自分が車いすだから困っていたのか、ああいう環境だったから困っていたのか。 木谷 その気付きは大きかったですよね。自分の辛さとかうまくいかなさとか、ひいては障害というものが一体どこからどんな風に出てくるのか、周りとか社会へ目を向けるきっかけになったわけですね。 酒井 それに熊本は、障害当事者の運動がけっこう盛んなところでした。東先生(注1)やDPI日本会議(注2)の議長をしている平野さん(注3)がいたりして一緒に活動させてもらっていました。勉強をしていくなかでアメリカのADA法(注4)も知りました。そういう活動の機会が増えて、障害当事者が発信している姿も目の当たりにして、福祉を勉強しているだけでは少し物足りなくなっていきました。それに自分のなかにずっとあったモヤモヤ、疑問がそうした当事者運動といった活動のなかで解消されていくような気もしたんです。そもそものところに障害当事者の視点が入っていないことが多いわけだから、街づくりにしても、社会制度にしても、当事者自身が発言してその視点で一から作っていくような活動に魅力を感じました。それがちょうど大学四年生ぐらいのときでした。 木谷 卒業後の進路も考えている頃ですよね。そんなときに、大きな影響を受ける人や出来事と出会ったわけですね。 酒井 就職活動もやっていたんですよ。当時は就職氷河期の真っただ中で、障害者の就職支援というのも今のようにはなかったけど、唯一見つけた障害者の就職支援のイベントが東京であるというので、わざわざ母と一緒に東京の浜松町へ行ったんです。企業がブースを作って、障害のある学生たちが気になるブースをまわるというものだったんですけど、ブースが20個くらい並んでいるのに、企業の担当者が座っていたのはその半分ぐらい。ブースはあるのに企業の人事担当者が来ていなくて。それでも私たちは担当者のいるブースめがけて列を作って並びました。ようやく自分の番がまわってきて説明を受けて、そして最後に言われた一言が、「うちの会社にはエレベーターが無いですけどどうしますか?」って、そう言われたんです。それ私に言うの? どうするかを決めるのはあなたたちでしょう!って思いましたけど、学生の私には何も言えなった。じゃあ諦めますって、そんな感じで終わったわけです。 木谷 私も同世代だったので覚えていますが、確かに2000年代前半は就職がすごい厳しかった。それにしても悔しい思いをされましたね。 酒井 周りのみんなも厳しい状況だったし、まあしょうがないとも思ってはいたけど、それにしても障害者の就職って本当に厳しいなと。東京に行ってもこんな感じだったら地元の熊本ではもっと厳しいのは明らかでした。それで大学院に行くことにしたんです。片方でそういう厳しい現実を知って、でももう片方ではADA法のことを知ってもっと勉強したいと思いました。 小見出し2「障害者が普通に街へ出るために」 酒井 大学院生の頃、障害者権利条約の発効があって、日本でも差別禁止法の制定を見据えた動きがいくつかありました。それで、日弁連の池原弁護士(注5)達とアメリカのオレゴンに視察に行くので一緒に来ないかと平野さんから声がかかって、一週間ぐらい、はじめてアメリカに行きました。まずバスに乗るときに普通にスロープが出てきて、すんなり乗れるわけです。アメリカじゃ普通のことなんですけど、熊本だとまずスロープ付きのバスが来ない、来たとしても運転手さんが慣れていなくて怖い思いをするという状況だったので、アメリカで当たり前のようにバスに乗れる環境に衝撃を受けました。 木谷 身をもってそのギャップを体験されたんですね。それだけで日本には帰りたくなくなるかもしれない。 酒井 どうやったらこんな風に当たり前に、自然に障害者が街に出られるんだろうって。もうちょっとアメリカにいてその実態を知りたいなと思いました。その話を研修の現地コーディネートをしてくれた障害者団体に伝えたら、スカラシップを出してくれることになって、修士二年のときに研究・調査を兼ねて、アメリカのオレゴン大学附属の語学学校に三ヵ月間通うことにしました。そこで、オレゴン大学の障害学生支援室と出会いました。あるとき、語学学校のレクリエーションで観光バスに乗ってオレゴン・コーストに行くことになって、日本にいたときもそうだったように、車いすのままではバスに乗れないから周りの留学生の子におんぶをしてもらって乗り込んだんです。それからみんなで楽しんで帰ってきたら、障害学生支援室のスタッフが待っていて、「今日はあなたがいたのにアクセシブルなバスでなくてほんとうに申し訳ない!」って言うんです。そして2回目のレクリエーションでは、ちゃんと昇降機がついたバスがやって来た。留学生だろうがなんだろうが、あなたのアクセシビリティは法律で保障されているからって。 木谷 そのとき、酒井さんの予想もしていない対応が出てきたわけですね。それも衝撃でしたね。 酒井 日本にいるときは、友だちに「ごめんね、ごめんね」と言いながら背負ってもらって授業のフィールドワークに出かけたりしていたんですよ。だから法律ってなんて強いのか、そしてそれを作り上げてきた障害者運動って何なのか、改めてそういうことを考えるようになりました。また当時は、日本の大学には障害学生支援室がほとんどない状況だったので、オレゴン大学の障害学生支援室と関わるなかで、将来、障害学生支援に関わる仕事が日本でできたらいいなって思ったことを覚えています。 木谷 今の酒井さんにつながっていくこれまでのことがわかった気がします。熊本で出会った人や出来事も大きかったし、アメリカでの体験はさらに大きなきっかけになったと思います。でもすでに酒井さんのなかでそういうことを吸収する土壌があって、たぶんそれは高校や大学時代にそういったことを考えざるを得ないような体験をされていたことがあったんだと思います。 酒井 そうした経験は確かにいまの障害学生支援にもつながっているかもしれません。大学院を修了して2年後の2009年に前職の熊本学園大学で障害学生支援の仕事に就くようになるんですけれど、とにかくはじめは何も無いなか、学生を集めて養成講座をして、どうしたら円滑にサポート活動ができるのか手探りでやっていました。そんななか、私はあえて障害学生に対してドライな感じで接していたと思います。別にあなたがかわいそうで優しくしてあげたいから支援をしている訳じゃないのよと思っていたから。特に重度の障害がある学生は、これまで周りが手取り足取りで、寄って来る人たちはみんな優しい人、そういう自分をある意味甘やかしてくれる環境で育ってきた子たちが多かったから、そういう思い込みに対して、いやいや違うよと言いたかったのかな。そんな感じで接していると、ちょっと何というか、学生にとって決して甘えられる存在ではなかったでしょうね。 木谷 結局は自分で立っていくしかないという現実があるわけですからね。周りに優しくされたところで何も解決しないということを酒井さん自身が身をもって知っていたからこそ、そうしたんじゃないかな。 酒井 そうですね。それから私のなかの根本は、障害者の運動とか権利というものからもすごく影響を受けているので、学生にもセルフアドボカシーということに繋がる何かを伝えたいという想いがあるんだと思います。 木谷 でも、様々な障害のある学生がいるなかで、自身の障害のことを考えるって、そんなに簡単なことでも、生易しいことでもないですよね、きっと。 酒井 確かに人によってはそれができないこともあると思います。それに障害について考えるって正直しんどいし、行動しても何も環境が変わらないかもしれない。守られて傷つかないように済む人生もそれはそれで幸せかなとも思います。そういうことを考え出すと、何が正解なのかって悩みますね。でもやっぱり障害があるということで、ある種ちょっと闘わなきゃいけないことも社会に出ればあると思う。学生に無理やり闘えとは言わないけど、例えば障害者運動の歴史のなかで制度や環境が整ってきたことをまずは知ってみることって、実は大事なのかなと思います。 小見出し3「改めて、権利というものを考える」 木谷 特に権利ということを考えると、差別解消法にある合理的配慮というのもその必要性を本人なりが申し出るという契機がいまは必要なわけですよね。この人にはこういう配慮が必要だって、周りが気付いて形作られていくというものではない。 酒井 そう、本人が中心にある。そのことに関係して思い出したんですけど、私がこの仕事を始めた頃にちょうど熊本で差別禁止条例6をつくろうという動きが盛り上がっていったんですよ。障害者団体が集まって団結して、何かが変わっていくような、そんなワクワクした感じがありました。ちょうど国連の障害者差別禁止条約が成立して、その後、障害者差別解消法も施行され何かが変わっていくような期待感がありました。でも、あれあれ?ってなっていくんです。 木谷 もう少し具体的に、どういう感じだったんですか。 酒井 特に私は当事者として、法律によって自分の生活とか環境が大きく変わっていくんだと思っていたんです。でもそうはならなかった。変わっていったのはむしろ自分自身の生活環境ではなくて、支援者としての仕事の方、つまり障害学生支援の仕事の方でした。体制整備の研修が増えて、学内でも合理的配慮という言葉が聞かれるようになって、変わっていくのを感じました。例えば今まで何も言ってこなかったような先生たちから、差別解消法ができたからしないといけないんだろうというようなことで問い合わせが増えたり。一方で当事者の友人と話していても、実際、スロープ付きのバスの本数も増えないし、あまり変わっていないよね、みたいな話になる。 木谷 当事者としてどこか期待が裏切られた感じがあったのと、それだけでなく支援者としても何か違和感があった。 酒井 そうですね。障害学生支援の具体的な話をすると、例えば今まで自然にできていたことがわざわざ制度に則ってやらなきゃいけないというような発想、感覚になってしまった部分もあると思います。法律がなかったときは、確かに先生たちに理解してもらうのにすごく苦労はしたんだけど、でもその反面、配慮依頼文とかがないなかでも先生と学生のやり取りが上手くいくこともあった。制度ができると、四角四面な先生は依頼文がないと配慮ができないというような話になってきた。もちろん以前が良かったというわけではないけれど、実際にこの法律が学生のものになっているのかという疑問もありました。支援者や大学は新しい法律や制度に振り回されているのに学生は何にも知らなかったりするわけで。法律ができたことも知らない、権利だってこともわからないって。もっと下から湧き上がるものがくるのかなと思っていたら、上から覆いかぶさるようなことになっていって、そこが何かちょっと不思議な感じでした。そういうことがあって、もう一回アメリカに行こうと思ったんです。何かヒントになることがほしくて。 木谷 なるほど、それで三度目のアメリカを目指すんですね。 酒井 そう、それで日本財団の研修があるというんで受けようとしていたところ、ちょうど地震が起きたんです。2016年4月の熊本地震です。 木谷 それでも、行かれましたね。諦めなかったんですね。 酒井 地震が起きた半年後に行きました。それでも行って良かったと思っています。やっぱり違うんです。ボストンの大学に行って障害学生支援の現場を見たんですが、大学もポリシーを掲げてコンプライアンスとして当然のように障害学生支援室を置いているし、スタッフがスペシャリストとして位置付けられている。自分が日本から抱えてきた疑問や悩みが滑稽なぐらい、もう当たり前のようにやっている。障害のある人に対する姿勢というのも確立されている。やっぱり権利なんです。障害者が生きていくため、学ぶために支援や配慮をしてもらうことは。それで改めて頭のなかが整理されました。 小見出し4「障害学生支援の専門家として」 木谷 道筋は見えてきたし、そのための方法も知れたわけですが、日本に戻ってきてからはどうでしたか。 酒井 もちろんそう簡単にはいきません。いろんな難しくややこしいことがたくさん起きる。例えば、大学として考えていきましょうとなって障害学生支援委員会ができる。でもその委員会に、支援者であるコーディネーターが入っているかというと入っていないところも多いですよね。その理由のひとつは、雇用の形にもあると思います。コーディネーターってだいたい契約職員か嘱託職員といった非正規であることが多いですよね。だからそうした委員会のメンバーにはなりにくかったりする。確かに委員会には専門的なことをわかっている先生方はたくさんいるんですけど、学生たちの日常の姿を知らないままに学生たちの日常の支援について話し合っているという、ちょっと不思議な構図がある。それで体制整備をしたということになってしまう。まるで立派な家を、大学が学生の意見を聞かずに建てているようなものだと思います。学生たちも自分たちの意見を言えなかったりするわけで、だからこそコーディネーターっていう存在があるんじゃないかなって思っているんです。 木谷 そうですね。私たちコーディネーターは、何か答えを知っているというわけではないけれど、学生と一緒に対話をしていくなかでどうしていきたいかということを一緒に考えることができます。学生だけではまだ言語化できていないことも含めて、一緒に形作っていく存在。それはエンパワーメントと言えるかもしれないし、そういう学生に寄り添える立場でもあると思うんです。それが、4年とか5年の契約年限があるというのでは、仕事の仕方としてもどこか、自分は学生のこれからを全て見れないっていうことが頭の片隅にあり続けますからね。 酒井 そうですよね。だからもったいないと思う。もちろん人が変わっても学生が困らなければそれで良いと思っているんですけど、でもやっぱりどこかで学生に影響は出ますよね。 以前、ある教員から「あなたは専門家じゃないでしょう」というようなことを言われたことがあったんですけど、いや私は障害学生支援の専門家ですって言いたい。その専門家として、今この障害学生をどう支援するかっていう議論をさせて頂きたいんだということです。 立命館大学で私は専門契約職員として雇われています。専門家として見てくれているというのは大きいなと思っていて、雇われている私たちもそうだし、大学の方でも同じ認識がもてているということで、働き方ってだいぶ変わっていくと思います。そこからほんとうの意味で良い学生支援が生まれてくるんじゃないかっていうこともちょっと思っています。 小見出し5「恋愛もする、母にもなる」 木谷 最後になりますが、これは共通して聞いていることなんですが、酒井さんがひと呼吸を入れられるときってどんなときですか。 酒井 私は結婚をしていて、子どもがいます。その子どもの寝顔を見るときが一番ひと呼吸つけるとき。そのことと関連するんですけど、障害のある学生たちと話していると、そもそも結婚なんて無理だとか恋愛できないとか、そういう感じがあってちょっと残念だなと思ってしまいます。もちろん結婚がすべてだとは全く思わないし、無理矢理恋愛しろとも思わないけれど、でもどうして自分のなかでそんなに制限してしまうのかなって。障害があるからできないとか、結婚して子育てしている私は特別だって言われたりする。障害者自身がある意味、障害のある自分を差別してるというか、偏見持ってるというか。そんな風にも思ってしまいます。もちろん出産や子育ては大変だし、実際に障害のある人が子どもを産むと子どもがかわいそうとか、どうやって誰が育てるのみたいなことを世間から言われます。でもいろんな制度や支援があるし、人にも手伝ってもらって子は育てられています。夫婦だけで子育てする必要はないし、いろんな家族のあり方があっていいと思います。みんなで子育てやればいいんだからって。 木谷 そうですよね。どんな方法、かたちだっていいはずです。 酒井 私の周りには障害のある人がたくさんいますけど、結婚している人、そして子どもがいる人はあまり多くありません。だから私も子どもを産んで育てていくなかで、障害があることで困っていることをなかなか周りに聞くことができなくて、お腹が大きくなるけどこのままで大丈夫なのかとか、車に子どもを乗せるときもどうやってチャイルドシートに乗せればいいのかとか、わからないことばかりでした。子育て情報誌はたくさんありますけど、車いすの人は出てこないから。 木谷 そうか。身近にロールモデルがあることってすごい大事だと思いますけど、それがほんとうに少ないわけですね。 酒井 そうなんです。だからいま、特に子育てについて誰かの役に立つ情報を発信できたらいいなって、ひそかに考えています。 木谷 そういう話をもっとしていきたいですよね。そして私たちもそうやってどんどんやりたいことをやっていきたいですね。 酒井 そうですね。結局は勉強も仕事も子育ても、やりたいことをどんどんやりたいなって思います。 プロフィール 酒井春奈・さかいはるな 立命館大学障害学生支援室 支援コーディネーター(社会福祉士) 大学院修了後、NPO法人でコミュニティソーシャルワーカーとして勤務。2009年より熊本学園大学しょうがい学生支援室にて障害学生支援に従事する。2016年に「日本の高等教育機関における障害学生支援に係るリーダー育成海外研修事業」の参加を機に、米国の障害学生支援の現状を深く知りたいと思い、退職して「TOMODACHI障がい当事者リーダー育成米国研修」に参加し、タフツ大学Student Accessibility Services(障害学生支援部署)でインターンを経験。帰国後、2018年より現職。 (注釈) 注1 東俊裕 熊本学園大学社会福祉学部社会福祉学科教授/弁護士 内閣府障がい者制度改革推進会議担当室室長(2009年〜2012年) 注2 DPI日本会議 障害種別に関わりなく多くの障害当事者団体が加盟する、障害者の社会参加を目指す団体。1981年に世界会議が行われ、1986年に日本でも発足。 注3 平野みどり DPI日本会議議長/元熊本県議会議員 障害者自立支援センター「ヒューマンネットワーク・熊本」設立に関わる。 注4 ADA法(Americans with Disabilities Act of 1990) 障害を持つアメリカ人法と訳される。人種、性別、出身国、宗教による差別の禁止を定めた公民権法と同じく、障害のある人が雇用などにおいて社会に参加できることを保障するための法律。 注5 池原毅和 東京アドヴォカシー法律事務所所長/弁護士 内閣府障がい者制度改革推進会議差別禁止部会部会員(2009年〜2012年)、日本弁護士連合会人権擁護委員会 障がいのある人に対する差別を禁止する法律に関する特別部会委員。 注6 障害のある人もない人も共に生きる熊本づくり条例 熊本県で2011年に制定され、翌2012年から全面施行された条例。 Editor’s Note インタビューの最後で、女性としてや母としての話になりました。恋愛ができない、親になれない、そんな思い込みが障害学生にあるといいいます。何ともいえない鈍い重たいものを感じます。だからこそ、そうした現状に何かできないかと思っているという酒井さんのお話には、「ぜひ!」と即答してしまいました。 そういえば最近、上野千鶴子さんの東京大学入学式の祝辞が話題になりましたが、そこで話されていたのは、幼い頃からの女性に対する「aspirationのcooling down(意欲の冷却効果)」。障害者にも通じる話だと思いました。障害があることでも気付かぬうちに諦めている(あるいは諦めさせられている)ことがたくさんあると想像します。 ところでまったく個人的な話になってしまいますが、立命館大学は私が初めて障害学生支援の仕事を始めた職場でした。熱い想いをもった教職員の方々にはずいぶん刺激をもらい、育てていただきました。めぐりめぐって、そこにまた酒井さんを訪ねて行くことができ、懐かしく嬉しかったです。酒井さんのこれからの挑戦、心から応援したいと思います。 (木谷恵) Concept 障害のある学生が高等教育にアクセスする権利を保障するための取り組みである「障害学生支援」には、その主人公である学生と対話し、ともに行動してきた多くの実践者たちの存在があります。こうした実践者一人ひとりには独自のバックグラウンドがあり、またそれぞれの考え方や想いをもって形作ってきた歴史があります。私たちは、これらの「人」によって蓄積されてきた考え方やその想いを知ることが、これからの障害学生支援を考えていく上で貴重な機会となり、この分野の魅力を知ることにつながると考え、この『ひと呼吸』を発行することにしました。ここに綴られているのは、私たちを含めた一人ひとりの関係者にむけた応援のメッセージです。 ひと呼吸・編集委員会(HEAP×Kyoto Univ.DSO) 村田淳、舩越高樹、宮谷祐史、木谷恵 HEAP:高等教育アクセシビリティプラットフォーム Kyoto Univ.DSO:京都大学 学生総合支援センター 障害学生支援ルーム クレジット 発行/高等教育アクセシビリティプラットフォーム(HEAP) Address 京都市左京区吉田本町 京都大学学生総合支援センター内 Web https://www.gssc.kyoto-u.ac.jp/platform/ Mail d-support-pfm[@]mail2.adm.kyoto-u.ac.jp Tel 075-753-5707