ひと呼吸第4号 リード文 私たちの日常。それは多くの営みの連なりである。 普段、それぞれの行為の意味を考えることは少ないが、ふと立ち止まって考えてみれば、そこには偶然と必然が潜んでいることに気づく。 呼吸。そのような自然な行為ですら、太古における偶然と必然の産物であったといえるかもしれない。 この『ひと呼吸』が、手に取った人の日々の呼吸(営み)を見つめ直すきっかけとなり、そして、それぞれの日常のなかでの「ひと呼吸(休息と起点)」になれば嬉しい。 本文 #4 Shirasawa Mayumi Interviewer / Text Funakoshi Koju 小見出し1「大学時代からこれしかしてこなかった」 舩越 よろしくお願いします。最初に共通して聞いているのですが、自己紹介をされるとき、どんな風にされていますか。 白澤 「聴覚障害学生支援の専門で、特に情報保障について研究をしています」という言い方をしますね。場合によっては、手話通訳士とか筑波技術大学の准教授だと言いますけど。それに加えて、「聴覚障害学生を受け入れている大学をサポートするために、全国行脚する毎日です」とお話しすることもあります。 舩越 全国を回られていると、行けば行くほど課題が見えてきませんか。 白澤 そうですね。最近は、むしろ一昔前のお話をさせていただく機会が増えた感じがします。一時期は障害者差別解消法の話ばかりで、どこに行っても同じようなテーマで依頼をいただいていたんですけど、最近は一周回ってだいぶ前のスライドを使用して、「聴覚障害って何?」とか「聴覚障害学生を受け入れたら授業ではどんな配慮をしたらいいか?」みたいな話をすることが増えました。改めて、きちんと支援を始めるんですっていう大学が増えたんでしょうね。裾野が拡がってきたということなのかな。 舩越 第二波という感じでしょうか。 白澤 そうですね。これまで支援に取り組めなかった大学もやっと動きだしてくれた感じです。さすがにやらざるをえなくなってきたのかもしれません。 舩越 先生はその第一波の段階から障害学生支援に関わられていますが、この分野に関わるきっかけとなる原初的な体験はどこにあったんですか? 白澤 学生時代ですね。大学時代からこれしかしてこなかったので。入学直後に手話と出会ったのが最初のきっかけです。本当にくだらない話なんですが、大学に入った時に「何か人の役に立つことをやりたい」って思ってたんですね。きっと良いことやりたいオーラが満々だったと思うんですけれども、その時に、たまたま同じ授業に聞こえない学生がいて、教室の前の方で手話通訳をしている先輩がいたんです。手話サークルの先輩だったんですが、それを見て、「すごい! あれやりたい!」って思って。良いことができるし、みんなの注目を集めるし、手話通訳ってすごいじゃないですか。大教室で皆に向かって全力で良いことができるというので、「かっこいい!」って思って手話を始めたのがきっかけです。まあ、でも実際にろうの人たちと話をするようになって、彼らが聞こえないというだけで授業に参加できていない現状が許せなくて、それでなんとかしたいと思ったのが今につながっているわけですが。ここから長いバージョンと短いバージョンと分かれるんですけど……。 舩越 ぜひ長いバージョンで(笑)。 小見出し2「ろうのプライド」 白澤 では……。それで、とにかく手話を覚えなきゃって一生懸命手話サークルに通っていたんですが、そんな時に先輩から夏に全国の集い(注1)があることを聞きました。今でも続いている会で、ろうの学生が毎年一回集まる三泊四日の合宿です。それが実家の近くで開催されるというので、私も参加しました。後に知ったのですが、この合宿は、ろうの学生たちにとってはアイデンティティを発見する場所で、多くの学生がわずか数日間で生まれ変わる体験をする、そういう場なんです。そこへ、入学してから四カ月で、自己紹介程度の手話しかできない状態で行ったんですね。それでも、最初のうちはみんな優しくて、手話ができない私に対して声を出してくれたり親切に合わせてくれてたんですよ。でもそれが二日、三日と経つにつれ、学生たちがアイデンティティを発見し始め、みんな声なしで話すようになるんですよね。だから、当然私は取り残されてしまって。それで、三日目の昼間が自由行動だったんです。私は、たまたま参加した分科会がすごく面白かったから、司会をしていた学生にゆっくり話を聞かせてもらえないかと思い、都合を尋ねたんです。そしたらその方が手話で何か話したんです。読み取れなかったので、「何?」って聞いたら、もう一度手話で話をされたんです。すごく短い言葉だったんですが、全然わからず、もう一回聞いてもまだわからなかったので、「ごめん、声出して」って言ったんですよ。そしたら、その学生がちょっと考えて、指文字で何か言ったんです。それもわからなくて困っていたら、仕方ないなぁという様子で紙に一言書いてくれたんです。それが「ろうのプライド」っていう言葉で。 ろう文化の話って、ご存知ない方もいらっしゃると思うのですが、ろうの子どもたちって小さい頃から「声を出す」という行為を教えられますよね。あれって、ろう文化の中では、聞こえる人の世界に自分を合わせる行為と捉えられていて、聞こえる世界からの抑圧の象徴と考えられることがあるんです。ろう学生の集いというのは、まさに今まで聞こえる世界にいて、ずっと声を出していた学生が、自分には手話があるんだ、これが自分の生き方なんだって発見する場で、だからこそみんな声を出すのをやめて、手話だけで話をしたりするんですよね。だから「ろうのプライド」っていうのは、自分は自分らしく生きたいから声は出さないって意味だったんですが。 そんな彼らの気持ちに一つも思いを馳せないまま、ただ何も考えずに「声を出して」ってお願いした自分に対して、ものすごく情けなくって、大変なショックを受けました。自分は何を考えて手話を勉強したいと思ったんだろうって思ったし、良いことをしたい、人の手伝いをしたいと思っていたけれど、こんな不快な思いをさせているようでは支援なんてできるわけないって思ったんですよね。 それで自分が思っていた「良いことするひと像」みたいなものがカラガラと音を立てて崩れ、今まで勝手に積み重ねてきた価値観ではなくて、まずはろうの人たちがどんなことを思っているのかを学ぼうって思ったんです。聞こえない人がこの世界をどう見て、どんな生き方をしているのか知りたいと。そして、願わくば、自分の前くらいでは、そんな言葉を書かせなくて済む状態、少しでも快適に自分らしくいてくれるような状態を作りたいなって。それが、私の原体験であり、すべての始まりでした。 小見出し3「歩み寄るということ」 舩越 大学ではどのようなことを学ばれていたんですか。 白澤 人間学類と言って、教育と心理と心身障害学のいずれかを選択できるコースにいました。もともとは教師になるために生まれてきたんだって思っていたのですが(笑)、2年次の初めのコース選択でいろいろと迷って、結局、心身障害学に行きました。 舩越 その通り教師になっていたら何の先生になっていた可能性が高いですか。 白澤 道徳です。イヤな先生ですよね。アクが強そう(笑)。 舩越 おもしろいですね。なぜ道徳だったんですか。 白澤 やはり「人の役に立ちたい」とか、「役に立てるような子どもたちを育てたい」みたいな幻想があったんですよね。「役に立つ」っていうことがどういうことかもわからないまま勝手なイメージを思い描いていたんだと思います。それが、先ほどの話でガラガラと崩れ去った。でも、聞こえる人の体の中には、それでも崩れずに残っているエゴみたいなのが染み付いているんですよね。だから、ろうの人たちと本当の意味で出会ってからの日々は、その残りのかけらを捨て去っていく日々でした。心に残った「健常者」としてのエゴをえぐり取るような。 舩越 話し辛いかもしれないですが、えぐり取った部分ってどんな部分だったんでしょうか。 白澤 いっぱいありますよ。すぐに良い例が思い浮かばないですが、例えば「歩み寄り」っていう言葉。手話を使うと私たちにとっては少なからず負荷がかかるじゃないですか。だからよく、自分たちも手話を使っているんだからろう学生は声を使うのがお互いの歩み寄りじゃないかなどと言われるわけです。私は原体験があったので、そうは思いたくなかったんですが、じゃあ、ろう者にとっての歩み寄りって何なんだろうってよく考えていました。そして、自分の中で出た答えは、ろうの人たちは私たちに対して、内心イライラしながらも、ゆっくりはっきり手話を表してくれるし、私たちの下手な手話を我慢して読み取ってくれている。それって十分歩み寄りじゃないかってことです。私たち聞こえる人間は、自分が頑張って手話を使っているのに、それが相手に負荷をかけているなんて思いたくないものです。でも、よく考えたら当然のことで、こういう気持ちも受け入れなきゃなと。 あと、これは最近の話ですけど、こうやってろうの世界にいると、ある程度理解したと思っていても、思えば思うほど、ろうの人たちから「お前はまだまだわかっていない」と突き放されるかのような瞬間ってあるわけですよ。「やっと近づけた」って思った瞬間に、まだまだだと突きつけられる。先日、松崎丈先生(注2)や吉川あゆみさん(注3)と話をしていた時に「聞こえる人にとっては、ろう者との関係って永遠なんだよね」って話をしたんですよね。そしたら二人が「でも、逆もそうじゃない?」って言ったんです。それを聞いた瞬間、「あ〜そっか、そうだよね」って心を打たれました。ろう者からすると、聞こえる友達との関係って本当に永遠で、やっと自分のことをわかってくれたと思った瞬間に、目の前で、手を動かさずに話されたりするんだそうです。自分には直接関係のない会話だから仕方ないと思いつつ、自分にとって「わからない」瞬間を見せられる。やっとわかり合えたと思ったのに、すぐに振りほどかれてしまうんだって。それを聞いて、きっとろう者は自分たちの何倍も辛い思いをしてきたんだろうなと思いました。本当に、自分は何を学んできたんだろうって。 でも、何年経ってもそんな衝撃を経験させてもらえるのは、ありがたいなとも思います。いつまでも成長し続けられる。それに終わりはないし、終わりだと思った瞬間に何かが崩れ始めるのだと思うので、理解しようと思ってやり続けることが大切なんだと思います。 小見出し4「吹き始めた風はあおるだけあおる」 舩越 学生の立場での障害学生支援から、教員へと立場が変わり、PEPNet-Japan(注4)(以下、PEPNet)を立ち上げる時はどんな感じだったんですか。 白澤 筑波大学には学部生時代から十年間通いました。大学院一年の時に、先程話に出た吉川さんに、今の「関東聴覚障害学生サポートセンター(注5)(以下、サポセン)」、昔の「関東学生情報保障者派遣委員会」に誘ってもらって、活動の幅も広がりました。ネットワーク活動を考えたのも、サポセンの活動を通じて、自分の大学の外の世界を見たのが大きかったと思います。いろいろなイベントを開き、他大学の方々と話をしているうちに、もっと現状を変えられる仕事をしたいと思って、筑波技術大学(以下、筑技大)に入ったんです。 実は、大学にPEPNetを立ち上げたいと話したのは、入職直後の4月でした。当時の学長は、着任して二週間目の私をアメリカ出張に行かせてくれました。そこでアメリカのPEPNetの詳細を学び、現地の先生方に、「日本に帰ったらPEPNet-Japanを立ち上げます!」と宣言して帰ってきてしまったんです。それで、帰国後すぐに学長にプランを話したらゴーサインが出たと。でも部局長からは、こういう時は根回しをするもんだと怒られましたけど(笑)。 舩越 若気の至りってやつですね。 白澤 まさに。それでも当時の上司はそのわがままを許してくれて、若手の暴走を暴走のまま走らせてくれたんです。それで結局、その年の10月に第一回目の会議を開いたんですよ。本当に勢いで立ち上げたっていう、若気の至りそのものですよね。今から思うと、周りの方々に支えていただいた結果なのだと思いますが、立ち上げた当時は、二回目以降のことにも全然考えが及んでいなくて、とりあえず立ち上げればなんとかなる程度の思いでいました。だから、準備委員会などもなしに、いきなり全国13大学の方々にお集まりいただいて、第一回関係者会議を開き、さあ二回目どうしようって、現実の大変さを知りました。なので、本当に走りながら方向性を模索してきた感じで、当時の関係者の方々には感謝しかありません。 舩越 当時、他大学はどのような状況だったんでしょうか。 白澤 当時は大学による支援が少しずつ始まりかけた時代で。筑波大もそうですし、日本福祉大学に障害学生支援センターが立ち上がったり、同志社大学に手話のできるコーディネーターさんが雇われたり。東大にバリアフリー支援準備室ができたのもその頃だったと思います。やっと障害学生支援の分野で目立った取り組みが出始めたところだったんです。私もサポセンで、ずっと近隣大学の障害学生支援体制の立ち上げを支援していたし、宮城でも、松崎先生らが「みやぎDSC(注6)」の前身の「宮城県・仙台市聴覚障害学生支援センター」を立ち上げて活動をされていました。 ただ、志を同じくする大学や団体が生まれてきたのはいいけれど、みんな同じことで悩んで進めないでいたんですね。例えばノートテイカーの養成ってどうしたらいいんだろうとか、学生はどうやって集めればいいんだろうとか。一方で解決したと思っても、また同じ悩みを持つ大学から相談を受ける。それなら同じように悩んでいる人たちが集まってネットワークを作ればいいじゃないかって思って、当時からアメリカのPEPNetの仕組みを日本に持ってこなきゃと思っていました。そして、その仕事ができるとしたら筑技大しかないと思ったんです。一般の大学は、自分の大学の支援で精一杯ですし、全国ネットワークの形成なんてやれる状態になかったので。それで、筑技大の先生方に自身を売り込んで、運よくご縁をいただけたと。だから、この時にはもう「機は熟した!」と思っていました。 舩越 全てのタイミングが合致したんですね。 白澤 今から思うと、サポセンでも同じようなネットワーク形成の仕事はしていたんですけど、サポセンは外部の任意団体なので、大学の中に入り込めない難しさがありました。大学の詳しい仕組みもわからないし、大学の人にとっては、外部団体の人を呼ぶことにハードルがある。だから、大学を変えるには大学の中に入るしかないと。それに、時期的にも非常にタイミングが良かったんですよね。当時、文部科学省が開始したGP(注7)の制度を使って、全学的な支援に乗り出す大学が出てきて、日本を動かすには、今ここで動くしかない、この風を逃しちゃいけないと思いました。障害者差別解消法もそうですが、「風を読む」っていうのは非常に大事ですからね。吹き始めた風はあおれるだけあおっていかないと。台風どころか、突風を吹き荒らすぐらいじゃないとって。これは、今でも同じように思っています。 舩越 PEPNetをやって一番良かったと思うことは何ですか。 白澤 難しいですね……。日本が動いたこと?  あと、個人的にすごく良かったなと思うのは、障害学生支援の現場にろう者を採用する大学が出てきたことでしょうか。大学の中に障害学生支援コーディネーターという仕事ができて、そこにろうの当事者が採られるようになった。小さいながらもろうのコミュニティーみたいなものが大学にできてきたり、大学の中でろうの先輩に相談ができる環境が生まれてきた。 同時に、ろう者が大学の教員になったりもして、障害学生支援の専門家として活躍できる場が生まれてきた。まだまだ事例は少ないですけど、そういう領域が生まれてきたのはすごく良かったですね。 小見出し5「ここからが勝負」 舩越 この分野まだまだ課題は多いですよね。 白澤 そうですね、私自身はどうしても聴覚障害支援に目が向いちゃうんですけど、いつもここからが勝負だと思っているんですよね。というか、まだスタートラインにも立ってない。聴覚障害学生支援について言えば、ろう学生が希望するすべての授業に何らかの情報保障が付くようになって初めて、そこがスタートラインになると思っているんです。今はそのスタートに向かって、マイナス部分を埋めているだけで、全部の授業に情報保障が付いて、そこからはじめていかに質を高めていけるかを考えていける。どうやってろう学生が周りの学生と本当に対等に学べる環境を作れるか。こういう仕事をしていると、どうしても「この辺で許して」っていうラインが生まれてくると思うんです。例えば、聴覚障害学生から、授業に「手話通訳とパソコン通訳の両方をつけて欲しい」って言われた時に、気持ちはわかるんだけど、現実的には難しいし、パソコンだけで我慢してって思う自分がいるわけです。でも自分がそう思っていたら、全国の支援に歯止めをかけてしまうし、自分自身がボトルネックになってしまうと思うんです。もちろん、支援のリソースには限りがあるわけで、ない袖は振れませんが、ろう者にとっては、手話通訳とパソコン通訳では機能が違って、内容によってはやっぱり両方欲しい場面は出てきます。だとしたら、そこを追い求めて行かないと、この世界は進まないし、自分がそこを捨ててはいけないと思っています。 舩越 スタートラインに立ってからの、次の一歩が問われているということですね。 白澤 さらに言うならば、手話通訳をはじめとする新たな支援パラダイムをどう導入していくかという課題もあります。今、大学の中では、学生の手によるノートテイク支援が広く採用されていると思うんですけど、実際大学の中には、こうした支援のみでは不十分な場面はたくさんあります。特に「手話通訳の導入」と「学生による支援からの脱却」は、非常に重要なテーマです。世の中には文字だけでは伝えられない情報があり、それを保障するためには手話通訳の存在が絶対的に必要です。このため、手話通訳がまだ選択肢にも上っていない現状では、聴覚障害学生の高等教育は保障されたとは言えないと思っています。同時に、学生たちもとても一生懸命頑張ってくれていますし、彼らがいたからこそ今の障害学生支援があるのですが、四年間で卒業していく学生に支援の根幹を委ね続けるのにはやはり限界があります。このため、これまで大学を支えてくれた学生たちに感謝しつつ、重要な機能については、専門の支援者を配置するなど、新たな支援の形を模索していかなければいけません。最近は、ITツールのみで支援を終わらせようとする事例なども散見されますが、それでは解決できない課題があることを声高に叫び続け、あおり続けたいと思っています。まだまだ日本を変えなきゃいけないですからね! 小見出し6「汗をかくと気持ちいい」 舩越 さて最後にもう一つ、皆さんと共通の質問があります。忙しい日々を過ごされていると思うんですけども、白澤先生がホッと一息つく瞬間って何をしているときですか。 白澤 運動です。ジム通いで筋トレ。疲れたらトレーニング! 舩越 それは以前からですか。 白澤 最近ですね。アメリカに行ってからです。アメリカの人たちってワークライフバランスの取り方がすごく上手なんですよね。それを見ていて、働くだけじゃ駄目なんだと思ってジムに行き始め、日本に帰ってからもそれが定着して、楽しくなった。筋トレをすると体力がつくんですよ。スタジオでエアロビやダンスをしても全然体力消耗しないし、汗をかくと気持ちがいい。この話も三時間ぐらい喋れますが、どうですか?(笑)筋トレだと、レッグプレスっていう、スクワットをするマシーンがあるじゃないですか。あれ、140kgとか上がりますよ。今年は、二日連続でPEPNetのシンポジウムをやっても足が全然むくまなかったし、すごいでしょ? 舩越 筋肉は裏切らない、ですよね! プロフィール 白澤麻弓・しらさわまゆみ 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター准教授 2004年に全国の高等教育機関で学ぶ聴覚障害学生の支援のためのネットワーク「日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan)」の立ち上げに尽力し、現在事務局長。聴覚障害のある学生の支援強化、支援者育成に精力的に取り組んでいる。文部科学省「障害のある学生の修学支援に関する検討会」委員。博士(心身障害学)、手話通訳士。著書に『海の向こうに行ったら日本が見えた―米国先進大学に学ぶ聴覚障害学生支援』デザインエッグ社(201 5年)など。 (注釈) 注1 全国の集い 高等教育機関で学ぶ聴覚障害学生のための全国的組織である「全日本ろう学生懇談会」が年に一度開催している「全国ろう学生の集い」。 注2 松崎丈 宮城教育大学教育学部准教授 注3 吉川あゆみ 関東聴覚障害学生サポートセンター 注4 PEPNet-Japan 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク。全国の高等教育機関で学ぶ聴覚障害学生の支援のために立ち上げられた。筑波技術大学を拠点とし全国の大学・機関の協力により運営。 注5 関東聴覚障害学生サポートセンター 1984年に関東学生情報保障派遣委員会として発足し、1999年から改称。聴覚障害学生支援全般に関する様々な取り組みを行なっている。 注6 みやぎDSC みやぎDeaf Support(Students)Center。宮城県で、聞こえない・聞こえにくい学生と高校、大学等を支援する専門組織として、2003年に「宮城県・仙台市聴覚障害学生情報保障支援センター」を設立。2009年度に改称。 注7 大学GP 大学教育改革のためのGood Practice。文部科学省が財政的なサポートや幅広い情報提供を行うことで、各大学などでの教育改革の取組を促進するプログラム。 Editor’s Note 白澤さんを訪ねて筑波技術大学に伺った日は、筑波山の稜線がきれいに見える秋晴れの日でした。大きな吹き抜けを挟んでも、向こうとこちら、手話で会話ができるようにと、大きくガラス張りにされた校舎に降り注ぐ陽光がとても心地よかったのを覚えています。 誰もが世の中の矛盾や理不尽さを感じつつ、でもどことなくあきらめてしまい、心の距離を置くのに慣れたかのように冷めてしまっているのが最近の風潮です。その中においても、「これ許せないでしょ」「こんな状態を放置してもいいのか」「おかしいじゃないか」「どうにかしてこの状況を変えなきゃ」と声を上げ、でも批判や論評をするだけではなく、その理不尽さを吹き飛ばしていくための仕組み作りをちゃんと進められる人に、ボクは職業人としての魅力を強く感じます。それをスマートにできている人にはなおさら。白澤さんはそんな魅力あふれる「人」の一人です。 だからでしょうか、インタビューの文字起こし原稿が手元に届いた時、その分量の多さにびっくりしました。たくさんお話しいただいたのに、ここに掲載できたのはごく一部です。残りの部分は将来絶対に書いていただきたい自叙伝のために取っておきますね。 (舩越高樹) Concept 障害のある学生が高等教育にアクセスする権利を保障するための取り組みである「障害学生支援」には、その主人公である学生と対話し、ともに行動してきた多くの実践者たちの存在があります。こうした実践者一人ひとりには独自のバックグラウンドがあり、またそれぞれの考え方や想いをもって形作ってきた歴史があります。私たちは、これらの「人」によって蓄積されてきた考え方やその想いを知ることが、これからの障害学生支援を考えていく上で貴重な機会となり、この分野の魅力を知ることにつながると考え、この『ひと呼吸』を発行することにしました。ここに綴られているのは、私たちを含めた一人ひとりの関係者にむけた応援のメッセージです。 ひと呼吸・編集委員会(HEAP×Kyoto Univ.DSO) 村田淳、舩越高樹、宮谷祐史、木谷恵 HEAP:高等教育アクセシビリティプラットフォーム Kyoto Univ.DSO:京都大学 学生総合支援センター 障害学生支援ルーム クレジット 発行/高等教育アクセシビリティプラットフォーム(HEAP) Address 京都市左京区吉田本町 京都大学学生総合支援センター内 Web https://www.gssc.kyoto-u.ac.jp/platform/ Mail d-support-pfm[@]mail2.adm.kyoto-u.ac.jp Tel 075-753-5707