#11 Peter Bernick Interviewer Murata Jun / Text Kitani Megumi 世界へ飛び出す 村田 本当は質問から入るところなんですけど、まずはお会いできて嬉しいですという感想から。この間、どこの大学もコロナによって大変な状況でした。それなのに直接会って、大変ですねと言う機会もなくて。バーニックさんとも直接会うのはずいぶん久しぶりです。この間、どのように過ごされていましたか。 バーニック 2020年の春に支援室の人の入れ替わりが相次いで、バタバタと落ち着きませんでした。ちょうどそこにコロナがやって来て、おまけに家族の事情で一度ハワイに帰る必要もあったりして。でもその間も日々リモートで支援室とやりとりして、新しいスタッフのサポートもあるし、オンライン疲れみたいなのも出てきて大変でした。でもなんとか乗りきって、日本に戻って来れた。 村田 通常の業務だけでも大変なのに、そこにいろいろ重なってしまったんですね。 今の現場の話もお聞きしていきたいんですが、まずはバーニックさんがどんなバックグラウンドをお持ちで今ここにいるのかということからお聞きしたいと思います。実は全然ちゃんと知らなくて。 バーニック なかなか膨大なので、大丈夫ですか(笑)。 村田 はい、ぜひとも。 バーニック まず生まれは、アメリカのオレゴンという西海岸の州です。母親はハワイ出身で、オレゴンの大学に通っていたんですね。そこで僕が生まれたんですが、2歳の時にハワイに戻ったので、育ちはハワイです。 それから僕もオレゴンの大学に進学しました。当時の僕は考え方がすごく偏っていて、完璧にできないことが許せない。もう0か100しかないみたいな感じでした。今はだいぶ改善されて、1か99でも許せるようにはなりましたけど(笑)。 そんなことで大学時代にちょっとやり過ぎてしまい、バーンアウトしてしまいます。いったんハワイに戻ることになって、ラナイ島のパイナップル畑で働いたりして、もう一度ハワイ大学に入り直しました。 ところがまた学費を稼ぐためのアルバイトを一生懸命やりすぎて、途中でパンクしてしまいます。頑張って働くものだからマネージャーに評価されて、もう少し働いてくれないかって頼まれるんですが、ノーとは言えない性格で、授業もたくさん取っているのに週30時間ぐらい働くようになってしまうんです。それでもう、生きるか死ぬかみたいなところまで追い詰められて、逃げるしかないって。それで手続きも何もせず全てを放棄して、アメリカ本土へ渡ります。自転車を持ってアメリカ西海岸に着いたら、テントと寝袋だけ買ってひたすら東へ向かって自転車をこぎ出しました。 アメリカ横断からシベリア鉄道、そして日本へ 村田 冒頭からスケールが大きいですね。それは20代前半ぐらいですか? バーニック まだ18歳でした。高校をちょっと早めに卒業していたので。 自転車をこぎ出したものの、所持金が300ドルぐらいしかない。途中、テキサス州で百科事典の訪問販売をやったり、ミネソタ州でコックをしながら旅を続けました。 ようやく東海岸のニューヨークにたどり着いた時、アメリカ横断なんて大したことないんじゃないか、世界一周しないと意味がないんじゃないかって、完璧主義からくる変な考えが浮かんできて、本で読んでいつか行きたいと思っていたシベリア鉄道を目指すことにしました。 村田 いいですね、僕も憧れていました。 バーニック シベリア鉄道に乗るまでにも、イギリスやスコットランド、アイルランド、フランスやベルギーにも行きました。キャンプしながら昔の知り合いや親戚を訪ねてまわり、アイルランドでは知人の家に数週間居候して、食べるためのお金を稼いだらまた移動といった感じでした。途中、宣教師に拾われてお金を恵んでもらったり、他にもいろいろ大切な出会いがあったんだけど、とにかくなんとかヘルシンキにたどり着きます。 ようやくシベリア鉄道に乗って、一週間かけてナホトカに着いて、そこから船で横浜に入ったのが、初めての日本でした。 村田 まさに一周まわって。 バーニック そう、もっと早い道はあったんですけどね。日本に着いたのが1984年10月だから、ハワイから2年かけてたどり着いたことになります。もう20歳になっていました。 最初、求人広告で見つけた英会話教室で働くことになります。英語を教えるかわりに四畳半の部屋を間借りできるっていう、僕にとってはうってつけの条件でした。でもやっぱりお金はなかったので、パン屋でパンの耳をタダ同然でわけてもらって、それにピーナッツバターをぬって空腹をしのぎ、夜は寒い部屋で寝袋の中で本を読んで過ごしました。 そうこうしているうちに新しい英語学校で働けるようになり、早朝レッスンをたくさん受け持つことで徐々に人並みのお給料をもらえるようになります。 そしてせっかく日本に住んでいるのだから、その土地への敬意というわけでもないですが、日本の言葉を喋りたいと思って、昼間は聖ヨゼフ日本語学院に通って日本語を勉強して、午後からは英語学校で英語を教えるという生活が3年程続きます。 村田 いろんな国をまわってきたバーニックさんが日本に留まって、語学までやろうと思ったきっかけって何かあったんですか。日本も「途中」であっても良かったわけですよね。 バーニック 理由はいくつかあって、直接の理由としては、それまでシベリア鉄道っていう目標があったけど、シベリア鉄道の先にはもう日本しかなくて、日本に着いたらお金がなかった、で、それ以上どこにも行けなかったというのがあります。 それから、初めて日本に来た時からあまり違和感がなかったというのもある。それは住んでいたハワイにアジア系の人たちがたくさんいたからだと思います。 あと、当時の僕はルールが好きだったんですね。ルールというか、枠というのか。日本にいる外国人という枠にうまくはまったのがわかりやすくて良かったのかもしれない。 村田 なるほど。 八丈島で日本を知る バーニック 英語を教えながら日本に3年程滞在したので、23歳になっていました。また自転車で東南アジアかオーストラリアを一周したいなとも考えていたんですが、そろそろ大学も卒業しておいた方がいいかと思い出してきて、結局ハワイの大学に戻ることにしました。 村田 そこでは何を専攻されるんですか。 バーニック もともとジャーナリズムを専攻していたんですけど、日本での滞在経験があったので、アジア学を専攻することにしました。そして今度はやっと卒業することができた。 村田 ひとつの区切りがついた。そこでまた次の選択肢が出てくるんですね。 バーニック そう。日本にいた時から言語が好きだなっていうのがわかっていて、もうちょっと勉強したいと思っていました。在学中に日米学生会議に参加した経験もあって、できれば働きながら日本語を使いたいなって。それでJETプログラム1というのに応募して採用されます。配属先希望を聞かれたので、滞在したことのある東京以外って答えたんですが、配属先は東京でした。でも、東京は東京でも八丈島。元々ハワイ出身なので、島は大歓迎です。 村田 八丈島ですか。 バーニック それが1991年で、初代の八丈島国際交流員として町役場に赴任します。役場側も受け入れ経験がないので、僕をどう扱えばいいのかわからない。だから何をするにも自分で考えないといけなくて、例えば、八丈町に何か物が必要な時は東京都庁に陳情に行くんですが、その陳情書をつくる手伝いなんかもしました。でもこの時の経験が今役に立っていて、陳情とか、日本の行政の考え方っていうのがとてもよくわかるようになったんですね。 村田 なるほどなぁ。でもかなり特殊な経験ですね。 バーニック 八丈島で3年間働くんですが、この時もう一つ大事な気付きがありました。当時アメリカと日本の間には摩擦が生じていて、アメリカ人は日本人に対して偏見を持っていた。でも当然、日本人もアメリカ人と同じようなことを考え、大事にしている。例えば親が自分の子どもの健康を気遣い、なるべく苦労しないで生きてほしいと願う気持ちは同じです。そういうことを知れば、何かが変わるのではと思いました。そこで、自転車で日本を一周しながら日本の人々の生の声を取材して、それをまとめてアメリカ人に伝えられないかと考えました。 いのちの電話相談員を経て専門的に学び始める 村田 その計画は実行されるんですか。 バーニック はい、本当に自転車で日本を取材してまわりました。ただちょうどその計画を立てていた時、知り合いに声をかけられ、ソフトの開発会社で働くようになっていました。取材旅行のために半年間の休みを条件に雇ってもらったんですが、実際働き始めるとなかなか休みが取れなくて、結局取材はできたんですが、それをまとめる時間がとれませんでした。 村田 確かに働きながらだと厳しいですね。 バーニック でもどうしてもやりたかったので、会社を辞めることにしました。ところが辞めたのはいいんだけど、その会社から今度はロシアで日本の国際援助の仕事を請け負うから手伝ってくれないかと懇願されて、ノーと言えない性格なので、1年だけという約束でお手伝いすることになります。 村田 ロシアですか。 バーニック ロシアは当時いろいろ厳しくて、全くもって事がうまく運ばない。それで1年が2年になって、2年が3年になって……やっとそのプロジェクトが終わったと思ったら、また今度は同じような国際援助の事業でトルクメニスタンの案件を手伝ってほしいと言われて……。 村田 だんだん驚かなくなってきました(笑)。やっぱりノーと言えないから、ですね。 バーニック はい。でもロシアよりもっと事が進まない。一緒に行った社員もすぐに辞めてしまうし、後任の人も不運が重なりなかなか決まらないし、結局一人で2年ぐらい続けて、ようやく別の知り合いに引き継ぐことができました。 村田 そんなお仕事をされていたのも全然知りませんでした。 バーニック 結局ロシアとトルクメニスタンに5年ぐらい費やして、もう相当くたびれちゃって。そのあとしばらくはあまり仕事をしていなかったんですが、ちょっと時間が余ったので、東京英語いのちの電話2という電話相談を始めることにしました。 もともと僕自身も、高校、大学と悩んでいた時期があって、カウンセラーと話すのは身近なことでした。自分の問題がなくなったわけではなかったんですが、それまでの経験をいかせるかなと思って。 実際に電話相談をしていると、すごく自分に合っているように感じました。ボランティアで入りましたが、途中で電話相談部門のディレクターになって、そこで3年ぐらい運営に携わり、任意団体だったのをNPO法人にしました。 村田 とても合っていたんですね。 バーニック 非常に充実した3年間でした。もっと専門的に勉強したいと思うようになって、一度仕事を辞めてボストンの大学院に行くことにします。 村田 心理学とかですか? バーニック 迷ったんですが、広く人を見たり考えたりする包括的な視点が必要だと思って、ソーシャルワークを専攻することにしました。 村田 そうか。ここにきて今のお仕事につながる話になってきましたけど、さまざまな経験がその時々の判断に作用してきた。それが今につながっているんだって思いました。 バーニック まさにそうですね。各段階で、その直前とか、その前の段階があったからこそ今があるんだと思います。 日本とアメリカのギャップ 村田 大学院を修了したあと、どうされたんですか。アメリカで働くという選択肢もありますよね? バーニック それも一つの選択肢として十分あったんですが、貢献と言うと大げさですけど、日本で何かできないかなと思って、結局日本に戻ることにしました。 それが2009年で、45歳になっていました。少しの間、別の機関でも働いて、2011年に長崎大学へ学生相談のカウンセラーとして着任します。 村田 日本の大学で学生相談を始められて、最初にどんなことを思われましたか。 バーニック そうですね。アメリカで学んだし、アメリカの感覚で入ってるので、例えば連携の仕方であるとか、個人情報の扱い方にはだいぶ葛藤がありました。 当時は、やっぱりアメリカの方が断然厳しいと感じました。それを同じようにやろうとすると本当に事が進まない。自分なりに折り合いをつけてやっていくのに、すごく時間がかかりました。 でもこの時役に立ったのが、さっき言った八丈町役場での経験ですね。国立大学の官僚的というか、行政的な考え方を理解するのにすごく役立ちました。 村田 なるほどなぁ。それから障害学生支援のお仕事に就かれるわけですよね。それが確か2014年頃ですね。 バーニックさんのこれまでの経験から、今の障害学生支援はどんなふうに見えているんでしょうか。 バーニック 今の状況を一言で表すと「これから」でしょうか。アメリカに精通しているわけでもないのですが、どうしてもそこは比較して考えてしまいます。 アメリカでは、障害のあるアメリカ人法3が1990年にできて約30年経ちます。1973年のリハビリテーション法4まで遡ると50年経つんですが、それでもまだ完成形とは言えない。だから当然時間はかかるのですが、やっぱり日本では土台がまだしっかりしていないと感じます。 村田 その土台というのは、具体的にどういったものですか。 バーニック 大きくは二つあって、一つは法律関係、もう一つは社会的認知です。どちらもまだ十分に進んでいない。 村田 社会的認知が進んでいくと、みんながそれを当たり前に思い始めるので文化になっていくわけですよね。今みたいに啓発している段階では文化になっているとは言えないし、一足飛びに文化ができあがるわけではありません。 バーニック そうですね。文化は意図してつくるものではなく、本来は自然にできてくるものだと思うので、そう考えると、教育の役割がとても大きいと思います。それも高等教育以上に、初等中等教育。だからやっぱり、最終的にはそのあたりに手をつけていかないと、新しい文化をつくっていくことは難しいと思います。 村田 私もよく初等中等教育の研修とかで、大学生になったら本人が支援や配慮の必要性を理解したり、権利として考えていくことがより大切になりますみたいな話をするんですが、そもそもそれは、初等中等教育の段階からもっと考えてもいい話だということ。大学の支援者はすでにそうしたことに気付いていると思うので、そこからどう広げていくかが今後の課題だと思っています。 どこかで誰かが刺激を与え続ける バーニック 日本の場合、組織の影響もすごく大きいと感じます。AHEAD JAPANのような組織がいいかもしれないですが、例えばそういう組織を使って共通認識をつくって発信していかないといけないと感じます。 具体的には、授業の録音に関する考え方とか、そういう場面ごとの合理的配慮に関するデータベースがあるといいなと思います。どの大学でもある程度一律の考えのもとでやっていけるように、共通認識を構築していく必要があるんじゃないでしょうか。ただ、考え方というだけでは弱いので、その考え方を導き出す根拠としての法律がセットで必要です。 村田 なるほど。法整備と共通認識の構築はセットで必要で、その共通認識をどう周知していくかは、日本の場合だと個人で言っていくより組織的に言っていく方が効果があるということですね。 バーニック そうですね。それでも、結局は身近なところからできることをやっていくしかないと思っています。文化をつくっていくのは非常に時間がかかるけど、僕の場合であればまずは長崎大学という身近なところに働きかけ続ける。それと同時に、大きな枠組みや組織を使っても働きかけ続ける。どちらも、どこかで誰かが刺激を与え続けないと止まってしまうから、とにかく動き続けないといけないと思います。 村田 まだまだ聞きたいこともあるし、少しこじつけに聞こえるかもしれませんが、今日話をうかがって思ったのが、障害を文化というふうにとらえるならば、そこに敬意を払って、尊重することがとても大事じゃないかということです。 バーニックさんの場合、さまざまな国をまわってさまざまな文化や価値観と出会ってくる中で、相手の行動や思考に寄り添わないと、その国の人とコミュニケーションをとれないという経験をたくさんされてきたわけですよね。 バーニック 結果として、そうですね。 村田 それは、相手の文化や価値観を尊重してコミュニケーションをするということ。これまでの経験を通じて歩み寄ることの大切さに気付いてこられたのはとても大きいことだったのではないかと思います。 今の障害学生支援はともすると、目の前の障害のある人を理解するのにも、まず専門的な見地から考えていきがちなんですけど、その前に、その人やその文化に歩み寄って理解しようとすることがすごく大事なんじゃないかと思いました。 さて、ここで最後の質問なんですが、日々大変な時にバーニックさんがやっているひと呼吸って、どういうものですか。 バーニック 正直、それ今とても乏しいんですよね……。 もともと体を動かすのが好きなので、徒歩通勤とかランニングもいいんですけど、うーん、でも今やっててすごく楽しいのは、クッキー販売の手伝いかな。 村田 クッキーですか?何だか意外なお答えでした。 バーニック 長崎にいる友人で、料理の才能がすごくあるベルギー人がいるんですけど、その友人がつくったクッキーをいろんなイベントで販売していて、時間があればボランティアでその手伝いをしています。普段とは全く違う動き、話がそこにはあるので、すごくいい気分転換になっています。 「ベルギー人がつくったクッキーですよー」とか言って売るとみんな寄って来て、なかなか面白い(笑)。だから、体を動かすのとクッキー販売の手伝いが今はメインかな。 本当は読みたい本も山ほどあるし、さっき話した日本を取材してまわった記録をまとめて本にする作業もやりたいと思っているんですけど、とんでもない、それどころじゃないよね。 村田 今もノーと言えないバーニックさんが毎日頑張っている。そんな中、そういう遊びがあるって聞けたのはちょっとホッとしました。またいつか、バーニックさんの旅の本を読んでみたいです。今日はありがとうございました。 Peter Bernick・ピーター バーニック 長崎大学障がい学生支援室 助教(clinical social worker) 米国ハワイ州出身。1984年に自転車旅行の途中で初来日し、金欠のため帰国が困難となり約30年日本在住。パイナップル収穫作業、サケ漁、百科事典の訪問販売など、異色の経歴を経て2002年からNPO法人「東京英語いのちの電話」にてこころのケアに従事。2011年より長崎大学保健センターでカウンセリング業務を担う。2014年から障害によって困難を経験する学生のサポートや障害に対する理解啓発に携わる。 1 JETプログラム 語学指導等を行う外国青年招致事業(The Japan Exchange and Teaching Programme) 1987年に始まり、外国語教育の充実と地域レベルの国際交流を目的とし、海外から招致された青年らが日本の地方自治体や教育委員会、小・中・高等学校で国際交流の業務と外国語教育に携わるプログラム。 2 東京英語いのちの電話 1973年、日本にいる宣教師らが中心となって始めた英語の自殺予防ライン。現在も研修を受けた専門ボランティアによる電話サポートのほか対面カウンセリングやさまざまなプログラムを提供している。 3 障害のあるアメリカ人法 (Americans with Disabilities Act of 1990) 人種、性別、出身国、宗教による差別の禁止を定めた公民権法と同じく、障害のある人が雇用などにおいて社会に参加できることを保障するための法律。 4 リハビリテーション法 (Rehabilitation Act of 1973) アメリカ連邦政府による障害者差別の禁止が制定された法律。ただし差別禁止の適用が一般企業にまで拡げられるのは、1990年の障害のあるアメリカ人法まで待つことになる。 Editor’s Note 人に会うということを貴重に感じる日々が続いています。そのような不安定な社会状況の束の間に長崎へ足を運びました。久しぶりにリアルな対面で会話するバーニックさん。この間もオンラインではそれなりに話す機会がありましたが、それでも「再会」という言葉が頭をよぎるのは自然な反応だと思いました。 知らないことを探して、新しいことをやり始めてみる。ただ、その過程では新たな人との出会いや予期せぬ出来事に触れて、気がつけば共感したり、尊重したりする感情も芽生えてくる。バーニックさんのさまざまなエピソードは、先入観や固定概念がいかにもったいないものなのかを教えてくれたような気がします。 「普通」とは、しばしば多数派であることを表現するときに用いられる言葉であるように思います。ただ、自分が見えていないだけで(見ようとしていないだけで)、案外そうでもないのかもしれない。さまざまな文化や価値観があること、この面白さはたくさんの出会いで気づかされるものではないでしょうか。 紙面には十分に反映できないほど、バーニックさんの細かな経緯にはもっとたくさん出会いが潜んでいました。私も縁があってバーニックさんと出会うことができました。バーニックさんの人生の隅っこにでも、私を加えていただけると嬉しいなと、取材後、長崎の港を一緒に歩いている時に思いました。 (村田淳)